漫画『サクランボッチ』批判を通じ、「一人ぼっち」とは何か、その描き方について考える

木之花桜:中学2年生、笑顔が作れないタイプのぼっち

八乙女百合:中学2年生、お嬢様だから警戒されてぼっち、ただし本人は比較的喋れる

大待小雪:中学1年生、無口で人見知りするタイプのぼっち

小紫花陽:中学3年生、部員一人だけの文芸部にいるぼっち、ただし本人はイジリ屋で快活

 

まず百合漫画としての問題点から先に述べる。

本作には男が出てくる。桜の兄で、変なキャラだし、そこで展開される話がつまらない。

また、本作には合意の上ではない、酒に酔ってのキスシーンがある。ぼかさず、はっきりとキスしている。1冊最後まで読むと微妙だが、個人的にはマイナスなのでマイナスポイントに入れた。

 

美少女がぼっちであるということには、そもそも無理があるのではないか?という意見は一般的だと思う。これを打破するためによく使われるのは、「本当は周りのみんなに仲良くしたいと思われていて、自分も仲良くしたいと思っているけれど、お嬢様すぎて/美人すぎて仲良くできない」という設定で、創作物中で使い古されているために許されてはいるものの、嘘くさい。個人的な経験上、美人なのに学校ではあまり仲良しのいない女は、学校外でヤンキーとつるんでいる。「」で括ったような設定は現実にはない。

 

また、作品中で木之花桜が大待小雪に話しかけるシーンは、木之花桜のそれまでのぼっちぶりからかなり外れていて、違和感がある。

 

小紫花陽については普通の調子乗りキャラ、『ゆるゆり』で言う歳納京子みたいな感じ。一応文芸部で一人ぼっちだったという言い訳はできるのだが、本当に性格が悪くて一人ぼっちになるようなキャラなら萌え漫画として破綻してしまうため、歳納京子のように動いていく感じの、普通のキャラになっている。

 

結論として、この漫画は普通にかわいい女の子を描いてはいるが(ちなみに絵はかなりかわいい)、ぼっち漫画かというと微妙。かわいいキャラを活かして、かわいいという基準を無視した上で生々しいぼっち感を描くこともできたと思うが(要するに、蒼樹うめ先生の絵を使って『まどマギ』がSFをやったようなこと)、そうはならなかった。例えば、「家族」の温かな部分だけを背景にして、魅力ある作品を創り出すことは可能だが、「ぼっち」はどうしてももっと内向きな状態であり、「ぼっち」と向き合い描き出すということをしてしまうと、萌え漫画として許されるようなものにはならないのかもしれない。個人的には、かわいいキャラクターを用いながらしっかりと向き合うことで名作が生まれると思うのだが……。例えば、萌えキャラを使いながらも真面目に会社と向き合った作品が評価されずに『NEW GAME』のように(表面的には厳しくても、内実的に)温くした作品が評価されるのだから、芳文社から見て商業的に『サクランボッチ』の「ぼっち」は正しい、ということなのだろう。

 

 

サクランボッチ (1) (まんがタイムKRコミックス)

サクランボッチ (1) (まんがタイムKRコミックス)

 

 

Pokémon GOは「ポケットモンスター」なのか

ポケモンGOの日本国内配信から4か月が経った。戦闘についてのバランス調整があったり、捕獲の確率が上がったり下がったり、ポケモン個体値についてコメントを貰える機能がついたりと、日々変化し続けている。また、ポケモンGOが原因で3人が死んだ。

「ポケGO運転」死亡事故で実刑判決 徳島地裁、全国初 

ポケモンGO事故で死者 全国で2例目、愛知

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現在のポケモンGOには、走行中のプレイは禁止であることが明示され、「私は運転者ではありません」という表示をタップさせる仕組みができている。前の2例はわからないが、3例目の死亡事故は明らかにそのアップデートが済んだ後に起きている。つまり、3例目の運転者は「私は運転者ではありません」をタップした上で、ポケモンGOをプレイしながらよそ見運転をし、小学生を轢き殺したことになる。

 

ポケモンとは何なのだろう。ゲーム『ポケットモンスター赤・緑』とアニメ『ポケットモンスター』では主人公が喋ることによる違いも多いが、共通している価値観として人間社会にポケモンが馴染んでいること、科学と自然が調和した世界であることが上げられる。ポケモンは岩山や川沿いといった自然に生息していて、かつ人間と一緒に生きているものであり、例えば悪役であるロケット団に「ポケモンを道具にしている」という設定があることから対照的にわかるように、ポケモンは人間のパートナーとして尊重されている。

 

では、ポケモンGOというアプリケーションにおいて、『ポケモン』はポケットモンスターであるのだろうか?

 

ポケモンGOには、良い点もあるのだ。先に1つだけ述べておこう。

ポケモンの捕獲ができる

今までのポケモンシリーズでは、ボールを選択してからトレーナーは何もできなかった。本編ポケモンシリーズだけでなく、ポケモンコロシアム等でも同様で、祈りを込めつつAボタンを連打する(ただし意味がない)くらいしかできなかった。ポケモンGOでは、画面をスワイプすることでボールを投げられる。角度をつけて投げられる。これは良い。ポケモンをゲットするという部分では、優れていると言ってもいいと思う。

 

以下はポケモンGOの致命的な問題点だ。

 

ポケモンが人間と共に暮らす存在ではなく、道具になっている。本編のポケモンシリーズでは初代でも町中にヤドランがいたり、いあいぎりで道を切り開いたり、新しくなるごとに後ろをポケモンがついてきたり、サイホーンに乗ったり、「ポケパルレ」等の更なる触れ合い要素が生まれたり、ポケモンが人間と共に暮らしているということを大切にしている。ポケモンGOポケモンは大量に捕獲され、大量にアメに変えられ、無機質に並べられたジムを攻略し占領するための道具に過ぎない。

 

・我々は子どもとして、博士からポケモンを受け取り旅立ち、旅を通して成長するものなのだが、これには旅要素が全くない。実は本編ポケモンシリーズでもDSシリーズ以降少しおろそかにされていることではあるのだが……。

 

・自然と調和していない。ポケモンGOにはARモードがあるのだが、捕獲モード時のみ画面を通してポケモンが画面に映るだけであり、ポケモンが世界にいるという拡張現実さを全く出せていない。フィールドマップは無機質で、ポケストップとジムが並ぶ嘘くさいもので、全く見る気がしない。類似ゲームのIngressは設定上電脳世界らしさを出した上で画面でもそうなっているが、ポケモンGOにはトレーナーも、フレンドリィショップも、ポケモンセンターも、洞窟も草むらも街もない。

 

ポケモンがたまたま良い技を覚えているか、素質があるかどうかで判定され、捨てられていく。ポケモンと一緒に生きるゲームになっていない。「ひでんマシン」のような要素ももちろんないから、ポケモンが戦闘の道具から抜け出せず、ポケモンとしての個性を持てないものになっている。

 

・トレーナーと対戦できない。ジムに設置されたポケモンを倒す時、私とそのジムリーダーとの間にはなんの関係性もない。物語がない。お前のポケモンには負けないぞ!といったライバル関係が生まれ得ない。

 

・交換ができない。もっとも、ポケモンに対する思い入れが生まれないこのゲームに交換があっても、それは本来のポケモン交換(大事な息子を奉公に送り出す気持ち)とは全く違うものになるのだろうが。

 

・人と共存するのがポケモンなのに、ポケモンGOは人を殺す道具になっている。

 

以上の理由により、ポケモンGOは全くポケモンではない。

 

そもそも商業的なものだろとか、拡張現実さをもってポケモンが現れるゲームになったら更に事故が起きやすくなるだろという意見は正しい。正しいが、ポケモンGOは残念ながらポケットモンスターではない。そう言いたかった。

 

 

 

本屋さんにおけるフェアという空間

今日たまたま本屋さんで書店員と仕入れ担当の人との会話を聞いてしまった。盗み聞きではない。たまたま自分が本を見ていたそばで話があったから聞こえてしまったのだ。

 

書店員は、足りない本について何何を10冊、何何を5冊と話した後に、今度フェアで◯◯◯◯をやるから◯◯◯◯◯を欲しいと言った。 すると、仕入れ担当者がなるほどと感心し、その後も会話が弾んでいるのだ。彼らはその本そのものや、その本周辺のジャンルについて精通しており、それぞれかなり理解していた。本の売れ行きに詳しいだけではなく、本の分類や在庫数を管理しているだけでもなく、本のエキスパートであることがよく伝わってきた。

 

 

 

我々は美術館を観覧する時、美術品を購入するために歩き回るのではない。その場で美術品を鑑賞し、キュレーターの提示する空間に浸ることを目的としている。一方で本屋さんではどうだろう。本屋さんに向かう際の心構えは、次のうちの一つ、あるいはいくつかが重なったものと考えられる。

 

一、目的の本を買う

書名がはっきりしていて、その本があれば買い、無ければ買わないという行動。

二、ぼんやりとしたあるジャンルの本を買う

例えば何か推理小説が欲しいとか、まんがタイムきららの4コマ漫画が欲しいとか。

二・五、ある著者の本を買う

村上春樹ノーベル文学賞候補(笑)だから何か読んでみようとか、本屋さんに行くたびに好きな大作家の本を一冊ずつ買うことに決めているとか。

三、ある物事を調べるために買う

目的が調査なので、複数の本を一度に買うことが多い。そうでなくても、ぼんやりではなくジャンルを細分化し、目的の小ジャンルに合う本を買う。

四、イベントのために行く

サイン会等のイベントが主目的であり、本を買うことが目的ではない。

五、なんとなく行く

なんとなく行く。ふらふらと歩き回り、欲しい本があったら買う。

六、他の目的までの時間つぶしとして行く

なんとなく行く。欲しい本を探すということをしない。買わないことが多い。

 

一般に本屋さんに行く目的としては一から三だが、四から六についても本屋さんの役割として考えられていると思う。そして、四から六については、美術館と重なる部分があるのではないだろうか?

美術館の空間をキュレーターがつくるように、本屋さんの空間を書店員がつくる。棚には、平積みには、フェアには本屋さんの思想が表れる。我々が一から三の目的で本屋さんに行くときでも、そんなことを意識してみると、本屋さんの中を歩き回ることが更に楽しくなるかもしれない。

 

 

 

微熱空間 1 (楽園コミックス)

微熱空間 1 (楽園コミックス)

 

 

『明仁天皇と戦後日本』(河西秀哉)

私の中で天皇といえば明仁だ。平和を愛し、被災者の言葉に耳を傾け、内閣総理大臣最高裁判所長官を任命し、褒章を授与する存在。私は個人的に今上天皇を緩やかに尊敬しているが、なぜ尊敬しているのかはよくわからない。

 

この本では、明仁天皇が皇太子だった頃から非常に政治的な存在であったことが書かれている。皇太子の頃からこれだけ色々な取り上げられ方をされ、戦争を起こしてしまった昭和天皇に代わる日本の戦後を象徴する存在として政府、マスメディアが一体となって利用したというのには驚く。そして皇太子としての政治利用が済んだ後には、明仁自らが戦後日本の象徴としてあるべき姿を模索し、行動として示していく。その平和を祈る行動原理の根本となったのは、戦後に受けた家庭教師からの教育であることも述べられている。

 

明仁天皇により作られた大衆天皇制は明確に大衆の支持を集めている。しかしそれは、天皇という伝統権威だけによるものではなく、皇太子時代からの政府、マスメディアが一体となった政治利用の上に、更に本人による平和への祈り、それを行動として示すための努力が積み重なってできたものである。明仁天皇が尊敬されているのにはちゃんとした理由があってのことであり、もしこれから先、未来の天皇が戦争を望んだり沖縄を切り捨てたり弱者を見下したりした場合、その瞬間から大衆天皇制は崩壊し、ただ名前だけの存在になるのではないかと思う。自分が今上天皇を緩やかに尊敬しているのは、決して異常なことでも、マスメディアの工作により操られているだけというわけでもないと、自分の中では納得がいった。

 

さて、明仁天皇が生前退位の意向を述べられ、世論調査ではその意向が支持されている。

「生前退位 認めたほうがよい」84% NHK世論調査 | NHKニュース

その一方で、政府は特例法で一代限りの対応にしようとしている。

「生前退位」 特例法軸に 政府、皇室典範に付則追加案 :日本経済新聞

これは明仁天皇の意向とは全く異なる。

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば:象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(ビデオ)(平成28年8月8日) - 宮内庁

部分的に引用するのは失礼かとも思うが、具体的には

我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ

と、これまでとこれからの天皇の歴史を考えての意向だと示されており、政府のやり方は明仁天皇の思いとは全く異なる。

当然、お言葉の前には政府関係者とのすり合わせもあったはずであり、その中でこのような明仁天皇の考えとは明らかに違う方針がなぜ上がったのか、不思議でならない。

 

この本を読んで、私は天皇制に対して、つかず離れずの距離でいようと思った。日本国天皇のために生きるのでもなく、天皇制を身分差別として撤廃を求めるのでもなく、緩やかに、天皇が良いことをしていたら天皇偉いなあと思う程度の距離でいいし、それを許してくれるのが大衆天皇制なのではないかなと感じた。

 

 

明仁天皇と戦後日本 (歴史新書y)

明仁天皇と戦後日本 (歴史新書y)

 

 

映画『君の名は。』感想(未見の方はクリックしないでください)

客層が若かった。ウキウキなオタク団体が何組かいた。僕はもちろん独りで見ました。

これから必ず見るつもりで未見の方はこの先を読まないでください。

 

 

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映画『ルドルフとイッパイアッテナ』感想(ネタバレあり)

原作に忠実で妥当な映画化だと思う。以下ネタバレあり

 

スカイツリーをわざわざ風景に描いているのにもかかわらず、それ以外の日常は原作通り、つまり学校に猫が侵入できるし、セコムも鳴らない。悪く言えば変な映画。特に序盤はディズニーっぽくて、なかなか入り込めなかった。ブッチーが完全に洋画的道化師の役回りなのもディズニーっぽさを強めている。

しかしルドルフに本を見せ文字を教え始めたあたりから慣れたのか、そのような違和感はなくなった。デビルの倒し方も原作通り。派手な演出もないので、本当にそのままなのだが。

あまり野良猫としての困難さが描かれていなくて、例えば学校の窓を閉め忘れていて、これで人間に気づかれて猫が入れなくなるシーンがあるかと思ったのだが、なかった。そういった不満はある。

 

問題はここからで、僕はこの映画を『ルドルフとイッパイアッテナ』の映画化だと思って見に行っていたこと。違うんですね。このデビル戦までがあまりに早くて、上映時間に合わないぞ?と思っていたら、ルドルフが岐阜に帰る話をやり始めた。『ルドルフともだちひとりだち』の映画化だ。これには驚いた。ナンバープレートを見ながらヒッチハイクを繰り返し、岐阜を目指すルドルフ。もちろん結末を知っているので、涙が止まらない。岐阜になんとか到着し、リエちゃんの家に入るところで、劇場の子どもから「死んだの?」と声が上がった。いい読みだ。でもリエちゃんは死んでいない。この結末は死より残酷かもしれない。

 

全体的に破綻はなく、安定した映画化だと思う。あえてこの映画を薦めるほどでもないけれど……。原作を読み返したくなった。イッパイアッテナのCGモフモフがたまらん。鈴木亮平のイッパイアッテナはいわゆる芸能人枠とは思えない、150点の演技。他の声優にも違和感はなかった。お話としてはもっと血が見たい気がするけれど、仕方ない。文庫化もされたし、本が読める人は本を読めばいいと思うけれど、悪くない映画化だった。

 

 

ルドルフとイッパイアッテナ (講談社文庫)
 

 

 

ルドルフともだちひとりだち (講談社文庫)
 

 

『シン・ゴジラ』感想(完全ネタバレ含む)

ゴジラシリーズはハリウッド版含め未見なので、ゴジラ完全初見。陸上自衛隊やテレビ局各社協力のもと作られている作品だからか、極端な作風ではない。良い映画だと思う。

 

この映画が伝えたいことは2つで、1つは東日本大震災の遺した傷痕、もう1つは政治家の仕事だ。巨大生物が東京湾から上陸してくる様は、東日本大震災による津波そのもので、見ていてかなりつらくなる。後から政治家が被災現場を見るシーンがあり、ここで製作者の意図が東日本大震災であることに気づく。明らかに狙って、巨大生物の上陸を津波に似せている。僕ですら泣いてしまうほどなので、より直接被災した人達が見られる映像なのかどうか。ただ、巨大生物が帰っていった後、まだ法律の制定すらできていないのに、あんなに早くビルの完全復旧が進むはずがない。一時の平和に皆が安心している様を示したかったのだろうが、東日本大震災の爪痕を描く作品だからこそ、あのカットには納得いかなかった。

 

政治家についての描き方が極端ではない。総理大臣も愚者ではないし、それは主人公が正しい政治家であるということを派手に強調しない作りになっている。ディスプレイに表示された生物の原子構造を見て議員までがそうか!と頷くところはかなりツッコミたくなるポイントだが。一部では噂があった「憲法9条があるから攻撃できない」などというシーンは全くない。このようなデマを流すのはやめてほしい。人物描写はほとんどなく、例えば序盤では政府の動きの遅さを咎めるシーンなど、かなりわざわざセリフに説明させることが多い。深くはない。ただ、明確に反核をうたっている。そこは外していない。

 

災害表現は強烈で、ゴジラの恐ろしさが伝わってくる。散々ビルがなぎ倒され、官邸機能の移転を決定させられた後の、あの強烈な熱線。絶望しかない。また、ゴジラに対する自衛隊や米軍の攻撃にも迫力があり、重さがある。その一方で、泣き叫ぶ被災者の映像がほとんどないのが残念というか、暗い映画になっていないポイントでもあるというか。明るい映画なんですよ。ゴジラは絶望を見せるけど、その絶望を深く深く見せる映画ではない。ゴジラによる絶望よりは、人間の希望を政治家、科学者を通して描いている映画であって、僕が「良い映画」と形容したのもそういうところがある。

 

作戦遂行直前にアメリカ・国連による核攻撃が炸裂して、ゴジラが増殖し、人類滅亡に至る映画のほうが見たかった。正直そっちのほうが見たかった。でもまあ、こういう人類の希望を描く映画でもいいんじゃないですか。