政党はなぜ必要か -ハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値』より-

政党なんて要らない、あんな奴らクソ喰らえというのが我々にとっての常識的な感覚だろう。自由民主党公明党民進党、維新の会、日本共産党、どれもこれもクソばかりだ。もしあなたが、国会に議席を持つ政党の中で1つでも支持できるものがあるとするなら、それはあなたが政治に興味がないか、政治を知らないに過ぎない。政治に興味を持ち、何年か眺めていれば、既存の政党のどれもクソばかりで支持に値しないということが自然とわかるはすだ。

 

では、政党なんか要らない、無い方がいいのだろうか。いや、そうではない。

 

民主主義の本質と価値 他一篇 (岩波文庫)

民主主義の本質と価値 他一篇 (岩波文庫)

 

 

『民主主義の本質と価値』は1929年に書かれたものであるのにもかかわらず、全く古さのない内容になっている。なぜなら、普遍的な近代国家における民主主義について論じたものだからだ。文章は中身が詰まっており、かなり骨が折れるものの、読む価値のあることは間違いない。

 

その中から、僕の中での感覚であった「政党なんか要らない」を覆した説明を見ていこうと思う。

 

 

 

「政党は一部の集団の利益団体に過ぎず、その基礎は利己心にある。」まさに僕が言いそうなことだ。ケルゼンはこれを一蹴する。

 

政党の求める党益に対するとされるものは、国民全員の求めるような全体利益であろう。しかし、超政党的な、「信仰、民族、階級状況などの相違とは無関係な全成員の利害共同体による」全体利益というものは、そもそも幻想である。それを決定するためには、「政党に代わってどのような社会集団が国家意志形成の担い手となり得るのか」という問いに答えなければならないが、そんなものはない。

政党に代わる社会集団として考えられるものは「職能集団」くらいだが、職能集団は専ら現実的利害によって結合しており、むしろ政党以上の利益団体になってしまうだろう。

つまり、我々国民が複数政党を持つ理由は、唯一の全体利益と言える「権力の独占」を一部の社会集団が持つということに抵抗するためであり、政党があることは結果として「妥協の可能性を作り出す」ことができる。「政党に憲法上の位置づけを与えることによって、政党内の団体意志形成を民主化する可能性が作り出される。」むしろ政党という形式をとることで、初めて我々は「国民」と呼ばれるような社会的力を発揮するのだ。

 

 

 我々が既存の政党に1票を投じたり、既存の政党の党員になったり、あるいは自分で政党を作ろうというときには、政策だけではなく上のような、そもそも政党とは何であるか、ということを考えてみるのもいいかもしれない。

 

漫画『ラストピア』短評 日常系漫画におけるメッセージ

漫画『ラストピア』を読んだ。最近ハズレばかり引いていた中で出会ったわりと当たりの漫画で、いつか2巻が出たら買おうと思っている。

 

 

ラストピア (1) (まんがタイムKRコミックス)

ラストピア (1) (まんがタイムKRコミックス)

 

 

先に1つだけ不満を述べると、記憶喪失の主人公のもとに親戚から荷物が送られてきて、主人公は一応記憶を取り戻したいと思っているのにもかかわらず、親戚のもとに会いに行こうとしないのは変だと思う。

 

・親戚から、そこでゆっくりしてなさいというメッセージがある

・自分がホテルでゆっくりするつもりだったという証拠、メモか何かがある

・はっきりとは思い出せないが、親戚に嫌な目に合わされていたような気がしており、逆に記憶喪失後の今の暮らしを変えたくないという希望がある

・衣類の詰め合わせを受け取り、それについて主人公が親戚からの「ゆっくりしてなさい」というメッセージとして捉える

 

以上のような何かがあったほうが良かったと思う。

私はサナトリウム厨なので、この島をサナトリウムなのではないかと読んでいるのだが、どうだろう。秘密は明かされないかもしれないが、2巻以降も楽しみだ。

 

 

この漫画の魅力はなんといってもキャラクターの描き分けで、登場人物がみんなかわいいのにもかかわらず、みんなそれぞれ違っている。萌え漫画を色々読んでいて思うのは、キャラの見分けがつかなかったり、このキャラはあまり好きじゃないなとはっきりしてしまうことが意外と多いということで、そういったことのない漫画はかなり貴重な存在と言える。

本作は島のホテルを中心に繰り広げられているが、ホテルを舞台にした作品で、経営や政治性の強かった『手と手を合わせて』

 

手と手を合わせて (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

手と手を合わせて (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

 

 とは違い、あまりメッセージを押し出さない、優しい漫画になっている。

日常系漫画において、何らかのメッセージを強く押し出すことは可能ではあるのだが、それが癒やしを損ねたり、キャラを壊してしまっていては意味がない。例えば『幸腹グラフィティ』は実は非常にメッセージ性の強い作品ではあるのだが、しつこくならない範囲に収まっており、むしろキャラクターの魅力の一部として内包されている。

『ラストピア』のメッセージはほとんどない。しかしそれは作品の価値を減らしているわけではなく、例えば酒に酔ったリッタが思わず漏らす孤独感は、メッセージを押し出さない漫画だからこそ印象に残るところだろう。あのシーンのような酔い方を僕もするので、読みながらわかるわかると頷いていた。

 

笑える漫画ということはないが、ネタには一切不快感がなく、しつこさやくどさはゼロで、穏やかに楽しめる程度に作られている。百合っぽく見える場面もたまにあるが、恋愛性はない。魅力ある女の子の集まっている良い漫画だ。

漫画『サクランボッチ』批判を通じ、「一人ぼっち」とは何か、その描き方について考える

木之花桜:中学2年生、笑顔が作れないタイプのぼっち

八乙女百合:中学2年生、お嬢様だから警戒されてぼっち、ただし本人は比較的喋れる

大待小雪:中学1年生、無口で人見知りするタイプのぼっち

小紫花陽:中学3年生、部員一人だけの文芸部にいるぼっち、ただし本人はイジリ屋で快活

 

まず百合漫画としての問題点から先に述べる。

本作には男が出てくる。桜の兄で、変なキャラだし、そこで展開される話がつまらない。

また、本作には合意の上ではない、酒に酔ってのキスシーンがある。ぼかさず、はっきりとキスしている。1冊最後まで読むと微妙だが、個人的にはマイナスなのでマイナスポイントに入れた。

 

美少女がぼっちであるということには、そもそも無理があるのではないか?という意見は一般的だと思う。これを打破するためによく使われるのは、「本当は周りのみんなに仲良くしたいと思われていて、自分も仲良くしたいと思っているけれど、お嬢様すぎて/美人すぎて仲良くできない」という設定で、創作物中で使い古されているために許されてはいるものの、嘘くさい。個人的な経験上、美人なのに学校ではあまり仲良しのいない女は、学校外でヤンキーとつるんでいる。「」で括ったような設定は現実にはない。

 

また、作品中で木之花桜が大待小雪に話しかけるシーンは、木之花桜のそれまでのぼっちぶりからかなり外れていて、違和感がある。

 

小紫花陽については普通の調子乗りキャラ、『ゆるゆり』で言う歳納京子みたいな感じ。一応文芸部で一人ぼっちだったという言い訳はできるのだが、本当に性格が悪くて一人ぼっちになるようなキャラなら萌え漫画として破綻してしまうため、歳納京子のように動いていく感じの、普通のキャラになっている。

 

結論として、この漫画は普通にかわいい女の子を描いてはいるが(ちなみに絵はかなりかわいい)、ぼっち漫画かというと微妙。かわいいキャラを活かして、かわいいという基準を無視した上で生々しいぼっち感を描くこともできたと思うが(要するに、蒼樹うめ先生の絵を使って『まどマギ』がSFをやったようなこと)、そうはならなかった。例えば、「家族」の温かな部分だけを背景にして、魅力ある作品を創り出すことは可能だが、「ぼっち」はどうしてももっと内向きな状態であり、「ぼっち」と向き合い描き出すということをしてしまうと、萌え漫画として許されるようなものにはならないのかもしれない。個人的には、かわいいキャラクターを用いながらしっかりと向き合うことで名作が生まれると思うのだが……。例えば、萌えキャラを使いながらも真面目に会社と向き合った作品が評価されずに『NEW GAME』のように(表面的には厳しくても、内実的に)温くした作品が評価されるのだから、芳文社から見て商業的に『サクランボッチ』の「ぼっち」は正しい、ということなのだろう。

 

 

サクランボッチ (1) (まんがタイムKRコミックス)

サクランボッチ (1) (まんがタイムKRコミックス)

 

 

Pokémon GOは「ポケットモンスター」なのか

ポケモンGOの日本国内配信から4か月が経った。戦闘についてのバランス調整があったり、捕獲の確率が上がったり下がったり、ポケモン個体値についてコメントを貰える機能がついたりと、日々変化し続けている。また、ポケモンGOが原因で3人が死んだ。

「ポケGO運転」死亡事故で実刑判決 徳島地裁、全国初 

ポケモンGO事故で死者 全国で2例目、愛知

ポケGO「車で操作できぬように」 小4死亡、父が訴え

現在のポケモンGOには、走行中のプレイは禁止であることが明示され、「私は運転者ではありません」という表示をタップさせる仕組みができている。前の2例はわからないが、3例目の死亡事故は明らかにそのアップデートが済んだ後に起きている。つまり、3例目の運転者は「私は運転者ではありません」をタップした上で、ポケモンGOをプレイしながらよそ見運転をし、小学生を轢き殺したことになる。

 

ポケモンとは何なのだろう。ゲーム『ポケットモンスター赤・緑』とアニメ『ポケットモンスター』では主人公が喋ることによる違いも多いが、共通している価値観として人間社会にポケモンが馴染んでいること、科学と自然が調和した世界であることが上げられる。ポケモンは岩山や川沿いといった自然に生息していて、かつ人間と一緒に生きているものであり、例えば悪役であるロケット団に「ポケモンを道具にしている」という設定があることから対照的にわかるように、ポケモンは人間のパートナーとして尊重されている。

 

では、ポケモンGOというアプリケーションにおいて、『ポケモン』はポケットモンスターであるのだろうか?

 

ポケモンGOには、良い点もあるのだ。先に1つだけ述べておこう。

ポケモンの捕獲ができる

今までのポケモンシリーズでは、ボールを選択してからトレーナーは何もできなかった。本編ポケモンシリーズだけでなく、ポケモンコロシアム等でも同様で、祈りを込めつつAボタンを連打する(ただし意味がない)くらいしかできなかった。ポケモンGOでは、画面をスワイプすることでボールを投げられる。角度をつけて投げられる。これは良い。ポケモンをゲットするという部分では、優れていると言ってもいいと思う。

 

以下はポケモンGOの致命的な問題点だ。

 

ポケモンが人間と共に暮らす存在ではなく、道具になっている。本編のポケモンシリーズでは初代でも町中にヤドランがいたり、いあいぎりで道を切り開いたり、新しくなるごとに後ろをポケモンがついてきたり、サイホーンに乗ったり、「ポケパルレ」等の更なる触れ合い要素が生まれたり、ポケモンが人間と共に暮らしているということを大切にしている。ポケモンGOポケモンは大量に捕獲され、大量にアメに変えられ、無機質に並べられたジムを攻略し占領するための道具に過ぎない。

 

・我々は子どもとして、博士からポケモンを受け取り旅立ち、旅を通して成長するものなのだが、これには旅要素が全くない。実は本編ポケモンシリーズでもDSシリーズ以降少しおろそかにされていることではあるのだが……。

 

・自然と調和していない。ポケモンGOにはARモードがあるのだが、捕獲モード時のみ画面を通してポケモンが画面に映るだけであり、ポケモンが世界にいるという拡張現実さを全く出せていない。フィールドマップは無機質で、ポケストップとジムが並ぶ嘘くさいもので、全く見る気がしない。類似ゲームのIngressは設定上電脳世界らしさを出した上で画面でもそうなっているが、ポケモンGOにはトレーナーも、フレンドリィショップも、ポケモンセンターも、洞窟も草むらも街もない。

 

ポケモンがたまたま良い技を覚えているか、素質があるかどうかで判定され、捨てられていく。ポケモンと一緒に生きるゲームになっていない。「ひでんマシン」のような要素ももちろんないから、ポケモンが戦闘の道具から抜け出せず、ポケモンとしての個性を持てないものになっている。

 

・トレーナーと対戦できない。ジムに設置されたポケモンを倒す時、私とそのジムリーダーとの間にはなんの関係性もない。物語がない。お前のポケモンには負けないぞ!といったライバル関係が生まれ得ない。

 

・交換ができない。もっとも、ポケモンに対する思い入れが生まれないこのゲームに交換があっても、それは本来のポケモン交換(大事な息子を奉公に送り出す気持ち)とは全く違うものになるのだろうが。

 

・人と共存するのがポケモンなのに、ポケモンGOは人を殺す道具になっている。

 

以上の理由により、ポケモンGOは全くポケモンではない。

 

そもそも商業的なものだろとか、拡張現実さをもってポケモンが現れるゲームになったら更に事故が起きやすくなるだろという意見は正しい。正しいが、ポケモンGOは残念ながらポケットモンスターではない。そう言いたかった。

 

 

 

本屋さんにおけるフェアという空間

今日たまたま本屋さんで書店員と仕入れ担当の人との会話を聞いてしまった。盗み聞きではない。たまたま自分が本を見ていたそばで話があったから聞こえてしまったのだ。

 

書店員は、足りない本について何何を10冊、何何を5冊と話した後に、今度フェアで◯◯◯◯をやるから◯◯◯◯◯を欲しいと言った。 すると、仕入れ担当者がなるほどと感心し、その後も会話が弾んでいるのだ。彼らはその本そのものや、その本周辺のジャンルについて精通しており、それぞれかなり理解していた。本の売れ行きに詳しいだけではなく、本の分類や在庫数を管理しているだけでもなく、本のエキスパートであることがよく伝わってきた。

 

 

 

我々は美術館を観覧する時、美術品を購入するために歩き回るのではない。その場で美術品を鑑賞し、キュレーターの提示する空間に浸ることを目的としている。一方で本屋さんではどうだろう。本屋さんに向かう際の心構えは、次のうちの一つ、あるいはいくつかが重なったものと考えられる。

 

一、目的の本を買う

書名がはっきりしていて、その本があれば買い、無ければ買わないという行動。

二、ぼんやりとしたあるジャンルの本を買う

例えば何か推理小説が欲しいとか、まんがタイムきららの4コマ漫画が欲しいとか。

二・五、ある著者の本を買う

村上春樹ノーベル文学賞候補(笑)だから何か読んでみようとか、本屋さんに行くたびに好きな大作家の本を一冊ずつ買うことに決めているとか。

三、ある物事を調べるために買う

目的が調査なので、複数の本を一度に買うことが多い。そうでなくても、ぼんやりではなくジャンルを細分化し、目的の小ジャンルに合う本を買う。

四、イベントのために行く

サイン会等のイベントが主目的であり、本を買うことが目的ではない。

五、なんとなく行く

なんとなく行く。ふらふらと歩き回り、欲しい本があったら買う。

六、他の目的までの時間つぶしとして行く

なんとなく行く。欲しい本を探すということをしない。買わないことが多い。

 

一般に本屋さんに行く目的としては一から三だが、四から六についても本屋さんの役割として考えられていると思う。そして、四から六については、美術館と重なる部分があるのではないだろうか?

美術館の空間をキュレーターがつくるように、本屋さんの空間を書店員がつくる。棚には、平積みには、フェアには本屋さんの思想が表れる。我々が一から三の目的で本屋さんに行くときでも、そんなことを意識してみると、本屋さんの中を歩き回ることが更に楽しくなるかもしれない。

 

 

 

微熱空間 1 (楽園コミックス)

微熱空間 1 (楽園コミックス)

 

 

『明仁天皇と戦後日本』(河西秀哉)

私の中で天皇といえば明仁だ。平和を愛し、被災者の言葉に耳を傾け、内閣総理大臣最高裁判所長官を任命し、褒章を授与する存在。私は個人的に今上天皇を緩やかに尊敬しているが、なぜ尊敬しているのかはよくわからない。

 

この本では、明仁天皇が皇太子だった頃から非常に政治的な存在であったことが書かれている。皇太子の頃からこれだけ色々な取り上げられ方をされ、戦争を起こしてしまった昭和天皇に代わる日本の戦後を象徴する存在として政府、マスメディアが一体となって利用したというのには驚く。そして皇太子としての政治利用が済んだ後には、明仁自らが戦後日本の象徴としてあるべき姿を模索し、行動として示していく。その平和を祈る行動原理の根本となったのは、戦後に受けた家庭教師からの教育であることも述べられている。

 

明仁天皇により作られた大衆天皇制は明確に大衆の支持を集めている。しかしそれは、天皇という伝統権威だけによるものではなく、皇太子時代からの政府、マスメディアが一体となった政治利用の上に、更に本人による平和への祈り、それを行動として示すための努力が積み重なってできたものである。明仁天皇が尊敬されているのにはちゃんとした理由があってのことであり、もしこれから先、未来の天皇が戦争を望んだり沖縄を切り捨てたり弱者を見下したりした場合、その瞬間から大衆天皇制は崩壊し、ただ名前だけの存在になるのではないかと思う。自分が今上天皇を緩やかに尊敬しているのは、決して異常なことでも、マスメディアの工作により操られているだけというわけでもないと、自分の中では納得がいった。

 

さて、明仁天皇が生前退位の意向を述べられ、世論調査ではその意向が支持されている。

「生前退位 認めたほうがよい」84% NHK世論調査 | NHKニュース

その一方で、政府は特例法で一代限りの対応にしようとしている。

「生前退位」 特例法軸に 政府、皇室典範に付則追加案 :日本経済新聞

これは明仁天皇の意向とは全く異なる。

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば:象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(ビデオ)(平成28年8月8日) - 宮内庁

部分的に引用するのは失礼かとも思うが、具体的には

我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ

と、これまでとこれからの天皇の歴史を考えての意向だと示されており、政府のやり方は明仁天皇の思いとは全く異なる。

当然、お言葉の前には政府関係者とのすり合わせもあったはずであり、その中でこのような明仁天皇の考えとは明らかに違う方針がなぜ上がったのか、不思議でならない。

 

この本を読んで、私は天皇制に対して、つかず離れずの距離でいようと思った。日本国天皇のために生きるのでもなく、天皇制を身分差別として撤廃を求めるのでもなく、緩やかに、天皇が良いことをしていたら天皇偉いなあと思う程度の距離でいいし、それを許してくれるのが大衆天皇制なのではないかなと感じた。

 

 

明仁天皇と戦後日本 (歴史新書y)

明仁天皇と戦後日本 (歴史新書y)

 

 

映画『君の名は。』感想(未見の方はクリックしないでください)

客層が若かった。ウキウキなオタク団体が何組かいた。僕はもちろん独りで見ました。

これから必ず見るつもりで未見の方はこの先を読まないでください。

 

 

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