『メアリと魔女の花』は濃厚な◯◯◯映画だった。

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メアリと魔女の花』は濃厚なジブリ映画です。

 

人によって「ジブリっぽい」に感じるものは違うと思いますが、この映画の予告や宣伝を見て「ジブリっぽい」と思って見に行ったなら、間違いなくジブリを体感できると思います。これは別に制作陣がジブリのパクリをやっているわけではなく、監督・脚本を務める米林宏昌ジブリのアニメーターとして長年やっていた人間だから、自然とそうなるのでしょう。つまり、どちらかというと人々の考える「ジブリっぽさ」の何割かが「米林宏昌っぽさ」で、それを感じているというのが正しいということです。

 

個人的な好みとしては監督の前作『思い出のマーニー』のほうが好きなのですが、『マーニー』は僕の中で映画最高クラスに好きな作品なので、それとの比較よりは、今作がとてもいい作品だったということを言いたいです。偶然見つけた花からとんでもないことが起きてしまい、不思議な世界に引き込まれ、ハラハラドキドキさせられます。メアリが涙を見せるあのシーンがいいですね。ぐっときます。その後も最後まで興奮させられっぱなしの映画で、とても楽しかったです。皆さん、ぜひ見ましょう。見た目だけではなく中身もちゃんとジブリっぽい映画なので、ジブリが好きなら見ましょう。ありがとうございました。

 

 

 

以下は未見の方は絶対に見ないでください。重大なネタバレを含んでいます。

 

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5月3日、憲法記念日の朝日新聞社説がすごく良かった

(社説)憲法70年 この歴史への自負を失うまい:朝日新聞デジタル

1面の社説が良かったので社説面の方も読んだら更に良かった。

(社説)憲法70年 先人刻んだ立憲を次代へ:朝日新聞デジタル

是非とも全文読んでください。(社説読んでもらえたら以下は読まなくていいです。)

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『サカサマのパテマ』感想 ‐『サカサマのパテマ』は何を伝えたかったのか?‐

『サカサマのパテマ』見ました。以下ネタバレありで感想を書きますが、僕はこの映画を他人に薦める気はないため未見の方でも読んでもらって構いません。

 

実は、見終わったときに僕はこの映画の内容を理解し切れませんでした。途中で思い違いをした結果、最後の主人公たちがどこにいるのかがよくわからなくなってしまったのです。この解答を読んで理解しました。恥ずかしながら、ネタバレを読んで理解したということを明言しておきます。僕は最初、パテマが上に飛ばされた後のシーンで、上の世界が地下だと思ってしまったんですよね。色合いが似ているから。セリフとしての説明もないし、つまりこの世界は上下ループしているんだ、「誰がこの世界を地球と同じような場所だと言った?」という話だと思ってしまったのです。普通に地球(と同じようなもの)が舞台なんですね。

 

とりあえず世界観については理解しましたが、その上でこの映画の問題点をまず挙げていきます。

・面白くない

とにかく全く面白くないです。ワクワクしない。一番重要なポイントなので書いておきます。

・アイガ世界の設定が適当

「空に落ちた連中は忌まわしい」「忌まわしいので空を見てはいけない」それはわかりました。じゃあなんで学校ではあんな青空全開の場所を移動して、教室もガラス窓になっているんですか?動く歩道があり、大きな建物を作れる技術力があり、電気もあるのに、なんで壁で覆わないんですか?頭おかしいんじゃないですか?

更に言うと、それまで感情なく俯いていた連中が、空に気球が見えたというだけの理由でみんな騒ぎ出すのもおかしいです。あのシーン、全員が空を見始めていて、逆に気味が悪いです。常識的に考えればわかりますが、学生の中には何があっても見ないようにしていたり、おいお前見ちゃダメだろと他人を押し付けて止めようとする人もいるはずです。タバコ禁止の学校で、映画スターがタバコを咥える広告が掲示されたら、いきなり全員がタバコを吸い始めるようになりますか?

地下世界とアイガ世界の位置関係が適当で、行き来が簡単なのか難しいのかがわかりません。描く場所を少なくして誤魔化しているようですが、直通してますよね?地下世界の連中を探しているというわりに、探さないとわからないほどの場所に隠れているようには見えない。物語で描いているのがほぼ住処発見寸前だったということなのでしょうか。

・恋愛脳が気持ち悪い

吊り橋効果一本で恋愛に持ち込んでいること、それによる意味不明なセリフ回し、その上に恋愛をギャグにしようとする恥ずかしさ、製作者お前そもそもこの設定を「男子は女子に抱きつかれたら興奮するじゃんw」という安易な感覚で使ってるだろ。そういった部分がひどかったです。

恋愛に限らず、すべてが嘘っぽい。人々の背景に生の感情が見られない。例えば地下世界の男と地上世界の男が共闘するというプロットは、普通に考えたら盛り上がるものですが、この映画を見ていても全く盛り上がりません。彼らに生の感情が見られないからです。

もう一つ言うと、男が地下世界で説教されるシーンは意味不明でした。セリフのつながりがめちゃくちゃです。あそこを理解できた人はいるんですかね?

 

では、ここからが本題です。この全く面白くもない映画は、一体何を伝えたかったのでしょうか?

 

・立場によるものの見え方の違い

セリフからして明らかに狙っていると思ったのはこれです。しかし、そもそもの重力の謎には一切向き合っていませんし、ラストで廃墟と化した地上世界を発見して「すごーい」「きれーい」では何の解決にもなっていません。お互いを認め合うことにつながる何かでないと成り立たないのです。

情報隠蔽の愚かさ

ネタバレを読んだ後に思いました。僕はこの映画の悪役があまりにもレベルが低くどうかと思っていたのですが、ネタを理解すると悪役のレベルが低いことに意味があるという話なのです。嘘の歴史を教え続けた結果、本当の歴史を忘れてしまい、その指導者が醜い性欲の怪物になるというのは良い皮肉です。公文書を破棄し、歴史を隠蔽し、そんな状態を国民が許し続けていると、いつかあんな国家になってしまうよ、ということです。しかし、それを伝えるにはアイガにしろ地下世界にしろ描写が足りない……これが個人の話ならいいのですが、社会や国家の話だと考えると描いている場所が狭すぎるのです。

・恋愛の美しさ

というわけでじゃあ男女恋愛かということになるのですが、この映画の恋愛描写は本当にひどい。先に述べた通り、生の感情が感じられないので、恋愛に感動することもないです。気持ち悪い。

 

ネタバレを読んで、なるほどなあとは思った映画でしたが、感想を一言で表すなら「だから何?」です。『イヴの時間』とどっちがマシか?と思いますが、どっちもダメだと思います。「だから何?」こんな映画を作って何を表現したかったのか。なるほどなあと思ったので駄作ワーストランキングには入れませんが、全然面白くなかったです。

『一般意志2.0』を利用し切った自民党、捻り潰された貴方と私/『私と彼女のお泊まり映画』を読んで、共感の時代について考える

 

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

 

 

 

 

GoogleのサジェストやTwitterのトレンドをヒントに、そういった無意識の形を取って現れるものを集積してオープンにすることで、専門家による密室(熟議が成立する一方、極めて閉鎖的な空間)での決定から、より良い民主主義が行えるようになるのではないか、という話。かなりいいかげんな要約だが、筆者もこの本は論文ではなくエッセイだと言い切っているので問題ないだろう。

 

最近の自民党公明党政権による政治的な横暴を見ていると、一般意志2.0を利用したのが自民党だなということを痛感する。安倍政権は各個の政策では反対5割〜6割あるのにもかかわらず、逆に政権支持率は6割あり選挙でも大勝を続けている(都知事選は違うじゃないかと言う人もいるかもしれないが、小池百合子自民党の人間ということを考えれば明白で、あれも自公政権の勝利である)。ではそれはなぜか。

我々は個々の政策について、それなりに反対を示せる。しかし、その反対の本気度がどうなのかという点についてはまた別なのだ。我々が安倍政権の掲げる様々な個別政策に反対していたとしても、その反対が本気でないのなら、強行採決されても実は何の問題もない。あとは適当に「決める政治」とでもアピールしておけば、「決められない政治」よりは良いんじゃないか、と誤魔化せるということなのだ。これに気づいたのが自民党で、例えば沖縄での基地建設、ヘリパッド建設、これらについて、沖縄県では猛烈な反対運動が行われている。国民世論を調査しても、慎重論が過半数を占める。それでも自民党が強行できる理由は、一般意志2.0にあるのだ。

我々は「沖縄に基地を集めるのはおかしい」という極めて常識的な意見を口にする一方で、無意識レベルでは「沖縄は税金泥棒だろ」「県住民ではなくチョンやシナ人が集まって抗議してるだけ」「サヨクがうるさいなあ」「あんなサヨク島は中国にくれてやったらいい」「沖縄人は土人、あんなの日本人じゃないから」こう思っているのだ。

今までは電話調査や現地での抗議だけを真に受けていたので、安易に沖縄に基地を作っていたらまずい、減らさなければならないという意識を自民党の人達も持っていたんだと思う。しかし、インターネットを通して我々の一般意志2.0を探った結果、沖縄県を痛めつけても「本土」の人々は気にしない、むしろ沖縄ざまあと喝采を送っている、そういうことがバレてしまった。事実、選挙でも自民党沖縄県議席を失う一方、他県では大勝し、「沖縄はしばけるだけしばいたほうが良い」という「本土」の民意を示した。今まではマスコミ等のフィルターを通して隠していた、我々の本当の民意が一般意志2.0、つまり無意識の集積によって曝け出されてしまったのだ。

 

これが安倍政権高支持率の背景だ。我々がどれだけレイシストで、どれだけ他人の痛みに無関心で、どれだけ偏見の塊であるか、自民党は把握してしまった。今の状況を変えるためには、根本的に我々国民が良い市民に変わるしかない。そうならなかった場合、自民党が勝ち続け、日本国民は死にゆく運命にあるだろう。しかしそれは、死んで当然の愚かな国民だった、ということなのかもしれない。

 

もちろん、本書は別に自民党のやっていることを正当化しているのではなく、本書の掲げる一般意志2.0では、集積されたデータはオープンにされるべきだと書いている。今は自民党が一般意志2.0をこっそり収集し、政策や報道に利用しているわけだが、本書の言う一般意志2.0ではそうではなく誰もが見られるようにデータが提示される。つまり我々が沖縄への差別感情を直視し、内省する機会が与えられるのだ。そういった仕組みなら良かったのだが。

 

 

以下は全く別の話。

 

 

 

私と彼女のお泊まり映画 1巻 (バンチコミックス)

私と彼女のお泊まり映画 1巻 (バンチコミックス)

 

 

映画を見て感想を述べ合うという行為は最高に面白い。それを百合と組み合わせた、極めて安直な、良いと思わないわけがない漫画が『私と彼女のお泊まり映画』だ。ただし、この作品では映画のネタバレをしない。僕も第1巻で見たことのある映画は『インサイド・ヘッド』だけだったし(それはそれで映画を見なさ過ぎなのでは?)、そういった層向けにかなり薄く作っている。一応、映画のレビュー欄だけはそれなりに作ってあるので、取り上げられる映画が好きな人でも失望はしない程度になってはいる。

テレビのワイプ芸人を例に出せばわかる通り、我々は面白いこと以上に、面白がっている人を欲しがっている。それが、そもそも自分一人では何を面白いと思っているのか判断できないのでは?と揶揄されたりもするのだが……我々は弱い動物なのだ。

ネタバレがないだけではなく、取り上げる映画も普通だし、あまり深いところに突っ込まないので(恐らくではあるが、作者が特別に好きな映画というものがあっても、あえてこの作品では使わないようにしているんじゃないかと思う。そういう漫画)、新しい映画を発見するという意味ではあまり役に立たない。ただまあ、こういう適当な百合漫画を読んでニヤニヤしてしまうような弱い人間なんですよ、我々は。私も女の子になって女の子と一緒に映画見たいです。そんな感じ。

政党はなぜ必要か -ハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値』より-

政党なんて要らない、あんな奴らクソ喰らえというのが我々にとっての常識的な感覚だろう。自由民主党公明党民進党、維新の会、日本共産党、どれもこれもクソばかりだ。もしあなたが、国会に議席を持つ政党の中で1つでも支持できるものがあるとするなら、それはあなたが政治に興味がないか、政治を知らないに過ぎない。政治に興味を持ち、何年か眺めていれば、既存の政党のどれもクソばかりで支持に値しないということが自然とわかるはすだ。

 

では、政党なんか要らない、無い方がいいのだろうか。いや、そうではない。

 

民主主義の本質と価値 他一篇 (岩波文庫)

民主主義の本質と価値 他一篇 (岩波文庫)

 

 

『民主主義の本質と価値』は1929年に書かれたものであるのにもかかわらず、全く古さのない内容になっている。なぜなら、普遍的な近代国家における民主主義について論じたものだからだ。文章は中身が詰まっており、かなり骨が折れるものの、読む価値のあることは間違いない。

 

その中から、僕の中での感覚であった「政党なんか要らない」を覆した説明を見ていこうと思う。

 

 

 

「政党は一部の集団の利益団体に過ぎず、その基礎は利己心にある。」まさに僕が言いそうなことだ。ケルゼンはこれを一蹴する。

 

政党の求める党益に対するとされるものは、国民全員の求めるような全体利益であろう。しかし、超政党的な、「信仰、民族、階級状況などの相違とは無関係な全成員の利害共同体による」全体利益というものは、そもそも幻想である。それを決定するためには、「政党に代わってどのような社会集団が国家意志形成の担い手となり得るのか」という問いに答えなければならないが、そんなものはない。

政党に代わる社会集団として考えられるものは「職能集団」くらいだが、職能集団は専ら現実的利害によって結合しており、むしろ政党以上の利益団体になってしまうだろう。

つまり、我々国民が複数政党を持つ理由は、唯一の全体利益と言える「権力の独占」を一部の社会集団が持つということに抵抗するためであり、政党があることは結果として「妥協の可能性を作り出す」ことができる。「政党に憲法上の位置づけを与えることによって、政党内の団体意志形成を民主化する可能性が作り出される。」むしろ政党という形式をとることで、初めて我々は「国民」と呼ばれるような社会的力を発揮するのだ。

 

 

 我々が既存の政党に1票を投じたり、既存の政党の党員になったり、あるいは自分で政党を作ろうというときには、政策だけではなく上のような、そもそも政党とは何であるか、ということを考えてみるのもいいかもしれない。

 

漫画『ラストピア』短評 日常系漫画におけるメッセージ

漫画『ラストピア』を読んだ。最近ハズレばかり引いていた中で出会ったわりと当たりの漫画で、いつか2巻が出たら買おうと思っている。

 

 

ラストピア (1) (まんがタイムKRコミックス)

ラストピア (1) (まんがタイムKRコミックス)

 

 

先に1つだけ不満を述べると、記憶喪失の主人公のもとに親戚から荷物が送られてきて、主人公は一応記憶を取り戻したいと思っているのにもかかわらず、親戚のもとに会いに行こうとしないのは変だと思う。

 

・親戚から、そこでゆっくりしてなさいというメッセージがある

・自分がホテルでゆっくりするつもりだったという証拠、メモか何かがある

・はっきりとは思い出せないが、親戚に嫌な目に合わされていたような気がしており、逆に記憶喪失後の今の暮らしを変えたくないという希望がある

・衣類の詰め合わせを受け取り、それについて主人公が親戚からの「ゆっくりしてなさい」というメッセージとして捉える

 

以上のような何かがあったほうが良かったと思う。

私はサナトリウム厨なので、この島をサナトリウムなのではないかと読んでいるのだが、どうだろう。秘密は明かされないかもしれないが、2巻以降も楽しみだ。

 

 

この漫画の魅力はなんといってもキャラクターの描き分けで、登場人物がみんなかわいいのにもかかわらず、みんなそれぞれ違っている。萌え漫画を色々読んでいて思うのは、キャラの見分けがつかなかったり、このキャラはあまり好きじゃないなとはっきりしてしまうことが意外と多いということで、そういったことのない漫画はかなり貴重な存在と言える。

本作は島のホテルを中心に繰り広げられているが、ホテルを舞台にした作品で、経営や政治性の強かった『手と手を合わせて』

 

手と手を合わせて (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

手と手を合わせて (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

 

 とは違い、あまりメッセージを押し出さない、優しい漫画になっている。

日常系漫画において、何らかのメッセージを強く押し出すことは可能ではあるのだが、それが癒やしを損ねたり、キャラを壊してしまっていては意味がない。例えば『幸腹グラフィティ』は実は非常にメッセージ性の強い作品ではあるのだが、しつこくならない範囲に収まっており、むしろキャラクターの魅力の一部として内包されている。

『ラストピア』のメッセージはほとんどない。しかしそれは作品の価値を減らしているわけではなく、例えば酒に酔ったリッタが思わず漏らす孤独感は、メッセージを押し出さない漫画だからこそ印象に残るところだろう。あのシーンのような酔い方を僕もするので、読みながらわかるわかると頷いていた。

 

笑える漫画ということはないが、ネタには一切不快感がなく、しつこさやくどさはゼロで、穏やかに楽しめる程度に作られている。百合っぽく見える場面もたまにあるが、恋愛性はない。魅力ある女の子の集まっている良い漫画だ。

漫画『サクランボッチ』批判を通じ、「一人ぼっち」とは何か、その描き方について考える

木之花桜:中学2年生、笑顔が作れないタイプのぼっち

八乙女百合:中学2年生、お嬢様だから警戒されてぼっち、ただし本人は比較的喋れる

大待小雪:中学1年生、無口で人見知りするタイプのぼっち

小紫花陽:中学3年生、部員一人だけの文芸部にいるぼっち、ただし本人はイジリ屋で快活

 

まず百合漫画としての問題点から先に述べる。

本作には男が出てくる。桜の兄で、変なキャラだし、そこで展開される話がつまらない。

また、本作には合意の上ではない、酒に酔ってのキスシーンがある。ぼかさず、はっきりとキスしている。1冊最後まで読むと微妙だが、個人的にはマイナスなのでマイナスポイントに入れた。

 

美少女がぼっちであるということには、そもそも無理があるのではないか?という意見は一般的だと思う。これを打破するためによく使われるのは、「本当は周りのみんなに仲良くしたいと思われていて、自分も仲良くしたいと思っているけれど、お嬢様すぎて/美人すぎて仲良くできない」という設定で、創作物中で使い古されているために許されてはいるものの、嘘くさい。個人的な経験上、美人なのに学校ではあまり仲良しのいない女は、学校外でヤンキーとつるんでいる。「」で括ったような設定は現実にはない。

 

また、作品中で木之花桜が大待小雪に話しかけるシーンは、木之花桜のそれまでのぼっちぶりからかなり外れていて、違和感がある。

 

小紫花陽については普通の調子乗りキャラ、『ゆるゆり』で言う歳納京子みたいな感じ。一応文芸部で一人ぼっちだったという言い訳はできるのだが、本当に性格が悪くて一人ぼっちになるようなキャラなら萌え漫画として破綻してしまうため、歳納京子のように動いていく感じの、普通のキャラになっている。

 

結論として、この漫画は普通にかわいい女の子を描いてはいるが(ちなみに絵はかなりかわいい)、ぼっち漫画かというと微妙。かわいいキャラを活かして、かわいいという基準を無視した上で生々しいぼっち感を描くこともできたと思うが(要するに、蒼樹うめ先生の絵を使って『まどマギ』がSFをやったようなこと)、そうはならなかった。例えば、「家族」の温かな部分だけを背景にして、魅力ある作品を創り出すことは可能だが、「ぼっち」はどうしてももっと内向きな状態であり、「ぼっち」と向き合い描き出すということをしてしまうと、萌え漫画として許されるようなものにはならないのかもしれない。個人的には、かわいいキャラクターを用いながらしっかりと向き合うことで名作が生まれると思うのだが……。例えば、萌えキャラを使いながらも真面目に会社と向き合った作品が評価されずに『NEW GAME』のように(表面的には厳しくても、内実的に)温くした作品が評価されるのだから、芳文社から見て商業的に『サクランボッチ』の「ぼっち」は正しい、ということなのだろう。

 

 

サクランボッチ (1) (まんがタイムKRコミックス)

サクランボッチ (1) (まんがタイムKRコミックス)