映画『ラブレス』とアニメ『ゆるキャン△』から学ぶ正しいセルフィー(自画撮り)の在り方

映画『ラブレス』の詳細な感想については述べません(悪い映画ではないし、良い映画だと思います)。ここでは『ラブレス』と『ゆるキャン△』においてのセルフィー(自画撮り)の使い方を見ながら、正しいセルフィーについて学んでみようと思います。

『ラブレス』ではスマートフォンが重要なアイテムとして使われています。スマートフォンは空虚さの象徴であり、主役の女が暇つぶしとしてしょうもない写真ブログを漁っているシーンがあったり、「本当の愛を教えてくれる」はずの不倫相手といてもスマートフォンをいじっていたり、印象的に使われています。セルフィー、いわゆる自撮りについても、主役の女がレストランでやったり、レストランで女達が集まってセルフィーを撮っている醜いシーンがあったりします。

ゆるキャン△』にもセルフィーがありますが、『ラブレス』とは映像に出てくる部分にまず差があります。『ラブレス』のセルフィーでは、彼女らが自らを撮っている場面を描写されている一方で、『ゆるキャン△』ではその部分が描かれません。省かれています。実は作品の冒頭に一度だけ撮影シーンもあるのですが、そのシーンではカメラのフレームの中がそのまま画面に映っており、撮影している人物をその外からは描いていません。

では『ゆるキャン△』にあるいくつかのセルフィーは何を描いているのでしょうか。『ゆるキャン△』のセルフィーでは撮っている様子ではなく、撮られた写真が描かれるのです。自分と景色を入れて撮影した写真を友達にチャットで送信したり、自分と友達の二人が一緒に入った写真を眺めたり、撮ったセルフィーを印刷して部室に飾ったり……。撮った写真の見せ方も、一般的なセルフィー(不特定多数に閲覧させる)とは異なっています。

この二つの作品から学べることは、良い写真とは(特定の)誰かのための写真である、ということではないでしょうか。いやいや、『ラブレス』のセルフィーも自分のためだろと言われそうですが(笑)確かに自分の自尊心のためには使われていますが、そういうことを言っているのではありません。『ラブレス』のようなセルフィーは写真を届ける相手がぼやけているのです。ネットの誰かに認められたい、多くの人にキラキラしていると思われたい、などという浅い考えでは、撮られる写真も浅くなるのでしょう。『ゆるキャン△』のように、自分で見返すためだったり、仲間に送るためだったりする写真には、芯が生まれてくるのです。これが正しいセルフィーなのではないでしょうか。

私は物心ついた頃から人物写真が嫌いで、集合写真も嫌い、風景を撮る写真が好きだったのですが、『ゆるキャン△』を見て、自分が映っているスマートフォンで撮るような写真も悪くはないかなと思いました。セルフィーのあるべき形を教えてもらいました。

15%の日本国民が、軍部による日本支配を容認している

政治の話が続いてしまって申し訳ありません。

今日たまたま見つけた記事に、とんでもないデータが載っていました。

民主主義が今、世界でなぜ、揺らいでいるのか

どの政治体制が良いと思うか?の問いに、15%の日本国民が軍部による支配がいいと答えています。より正確に表現するなら、軍部による支配でもかまわないと答えています、と言うべきでしょうけれど。

この調査の元データはここにあります。http://www.pewglobal.org/2017/10/17/japanese-divided-on-democracys-success-at-home-but-value-voice-of-the-people/

この調査結果に限ったグラフの画像はここです。http://www.pewglobal.org/2017/10/17/japanese-divided-on-democracys-success-at-home-but-value-voice-of-the-people/pg_2017-10-17_japan_2-01/

現在の間接民主制をまあまあ良いとすら思わない人が23%いたり、強力な支配者一人による体制を望む人が31%いたりするのも興味深いですが、軍部による支配を15%の人が良いと捉えていることは、正しい意味で平和ボケの象徴であるデータと言えると思います。

私は前から様々な世論調査の結果を見てきて、現在の安倍政権のような姿勢を何が起きても絶対に支持して離れない人は国民の15%くらいいるという持論を立てていましたが、その持論が間接的に証明されたような結果になっていて、喜んではいけないのでしょうけれど少し嬉しくもあります。よく「自民党に投票する人は頭がおかしい」「選挙に行かない人は頭がおかしい」と言って暴れまわる人がいて、僕は本当にそういうのはよくないと思っているのですが、色々な理由があって総合的に考え自民党政権を支持している人を、僕はおかしくないと言い続けたいです(さすがに、さすがに今回の公文書改竄に対する安倍晋三麻生太郎の姿勢はおかしいと思ってほしいですが……それでも例えば安倍はさっさと辞めて石破か岸田が総理やってくれとか、そうやって自民党政権を支持している人は正常だと思います)。 本当におかしい人は、この15%だけなんです。残りの85%の国民は、対話のできる国民だと思っています。特定の政党が嫌いな方も、他の政党の支持者に接する時には、どうかそのことだけは理解していただけると幸いです。

映画『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』感想

原題:The Post

この映画を見た誰もが、ニューヨークタイムズ朝日新聞を、ワシントンポストに読売新聞を重ねるだろう。ニューヨークタイムズペンタゴンペーパーズを報道している裏でワシントンポストが大統領の娘の結婚式を載せてしまう様は、公文書改竄をスクープした朝日新聞と政権に歯向かう発言を行った前文科事務次官の下半身スキャンダル(っぽい印象操作)を報じてしまう読売新聞に重ねられる。

この映画から学べる主要な教訓は3つある。1つ目は「新聞はどうあるべきか」。ワシントンポスト社主のキャサリン・グラハムとベトナム戦争の中心におり文書作成に関わったマクナマラは親しく、マクナマラはこの文書は後世のための記録として作成したものだ、公開するなと迫る。グラハムは自分の親戚がベトナム戦争に送られ命の危険に晒されている一方、マクナマラとの関係や、新聞社に対する投資家からの圧力もあり、苦悩する。渡邊恒雄は安倍晋三と親しく、何度も会食を繰り返しており、グラハムに重なるところが多い。それでは、グラハムをペンタゴンペーパーズの報道に踏み切らせたものは何か。それは現場記者の熱意と、報道とは何であるかというところに立ち返った報道人としての姿勢である。読売新聞にブラッドリーやバグディキアンがいるかどうかなのだ。

2つ目には、公文書保存の重要性だ。本作では政権側は秘密裏に確かな文書を作成していたのだが、もしこのような機密文書すら偽物だったらどうなるだろう。嘘をもとに分析がなされ、後の世代に更なる国家的損失を招くことになる。この作品においてベトナム戦争継続の根拠が問題視されたのは文書の記録がきちんと残っていたからであり、文書改竄されればそれ未満の話になってしまう。誤った戦争が起きても、後世の人々が誤った戦争だと知ることすらできなくなる(まさに太平洋戦争で日本が起こしたことだ)。なぜ正確な文書が記録され保存されていかなければならないのか、よくわかるだろう。

3つ目には国家とは何か、である。裁判所が最終的に記事の差し止めを却下したのには、国家とは何かが大きく関わっている。国家とは国民なのだ。ホワイトハウスや日本政府、ニクソン安倍晋三が国家なのではない。国民の声があるから、新聞社は機密文書をスクープできるし、裁判所も国民のための情報公開を止めることができない。私達次第で良い報道機関、そして良い国を作れるということを、もう少し私達は自覚すべきではないだろうか。素晴らしい報道には支援の声を。政府による国民に対する背信には糾弾の声を。

映画としてはあまり派手なところがなく、抑制的な描かれ方がされている。それ故にスカッとするものではないが、バランスのとれた映画だと感じた。戦いは続いていく。普遍的な作品であると言えるだろう。

電通を撲滅せよ

高橋まつりさんが自殺して電通が問題になったとき、僕の反応はこうでした。

「若くて綺麗な女が死んだからニュースにしてもらってるんだろ」

僕のこの反応は間違っていました。反省します。自らの浅薄さを恥じています。申し訳ありませんでした。

 

「電通、意識改革は遠く難しい」 高橋まつりさん母手記:朝日新聞デジタル

 

「高橋まつりさん報道、事実と思わぬ」電通役員が発言か:朝日新聞デジタル

 

人が死んで、報道にちゃんと乗って、NHKニュースでしっかり取り上げられても、それらの報道が自然に縮小していき、人々の意識には残らず、パワーハラスメントについては無かったことにされ、働き方改革という適当な標語にすり替えられ、結果、何も変わっていません。電通は平気な顔をし続けているんです。

 

私達が次の世代に何かしてやれることはないのか、というのは常々思うのですが、政治的な物事についてだと、各々のイデオロギーが絡んでくるため、なかなか全員が同意できる目標というのがないと思います。

そこで、今日は提案です。電通を撲滅しましょう。次の世代が幸せに暮らせるように、僕らの世代で電通を潰しませんか。

 

 

もちろん、電通は超巨大企業ですし、人を殺しても殺してものらりくらりとかわし続け、社員を洗脳下に置き、上司から部下へ犯罪行為や差別的思想そのものを会社の常識として刷り込み、その巨大な資本とパイプにより支配的な地位を保っています。しかし、だからといって私達は諦めて、電通を放置していてよいのでしょうか。

当たり前ですが、いくらカネを持っていても、電通が悪徳企業だと日本国民の100%が知っている環境下では、電通は生存できません。それが90%、80%だとしても、電通は相当動きにくくなるはずです。なぜなら当然そこからは、電通の広告した商品を避ける消費者や、電通の手法に嫌悪感を示す取引先の人間も相当数出てくることになるからです。それは確実に電通の支配力を弱めることにつながります。

 

 

僕らの世代で電通を撲滅しましょう。これからの日本が俗にいう中世を脱出し、現代的国家になるためには、その最大の敵である電通の撲滅が必要不可欠です。共に協力して電通を撲滅しましょう。

言葉が穢されていく

リンクは貼らないが、「多動」という言葉をタイトルに使った書物を2017年に2人の実業家(タレント?詐欺師?)が出版している。

 

多動(タドウ)とは - コトバンク

 

当然ながら、2人の使っている意味はADHDと関係ない。わざと意味を歪めるために2人の詐欺師はこのような出版を行っている。2人の言い訳は「動きが多いことを言っているだけであり、詐欺ではない」というところだろうが、他者や歴史に対する敬意がまるで欠けている。素人ではない、書籍を出せば必ずヒットするであろう知名度の持ち主が、その知名度を更に高めるために(つまりはライトな炎上商法目的として)やっているから質が悪い。当然書籍は売れ、言葉の意味を歪め、歴史の一部として残ってしまった。歴史の一部として残ったというのは、今この瞬間だけの問題ではなく、これから先人類を蝕み続けるだろう、ということだ。

 

2016年の米大統領選トランプ当選以後、現代は『ポスト・トゥルースの時代』だと頻繁に言われるようになったが、この話も「ポスト・トゥルース」の一事例として残しておきたい。2017年、まだまだ じんるいのみらいは くらいーーーーー

「どうぶつの森 ポケットキャンプ」は何故おもしろいのか

任天堂のビッグタイトルの一つである『どうぶつの森』からスマートフォンアプリ版がリリースされました。

 

どうぶつの森 ポケットキャンプ | 任天堂

 

基本無料で、チケットという形で課金要素がありますが、チケットはミッション(?)をこなすことで時々貰えるという形式です。昨今のガチャだルートボックスだ天井だといった要素とは無縁なゲームです(さすがに現時点では緩すぎるので、これからもっとチケットの大量に必要な追加キャラ等があるものだと考えられます)。

 

私的にはかなりうまいこと作ってあるなと思っていたのですが、そもそも無料であるということを完全に忘れているのか、このゲームをつまらないなどという輩が大量発生しています。一例がこちら。

 

「どうぶつの森 ポケットキャンプ」は何故つまらないのか - あおみかんのブログ

 

基本的にバカはスルーするに限るのですが、バカが大量発生して偽物の事実を作り上げることには抵抗があるので、反論しておこうと思います。

 

 

1.『ポケットキャンプ』は基本無料ゲームである

『ポケットキャンプ』は任天堂のリリースした基本無料ゲームであり、この場合、ゲームのあり方として何通りかが存在します。

①ガチャ盛り沢山、ファン心理につけこんで金を搾り取る(例:ファイアーエムブレムヒーローズ

②シリーズ作品の存在を認知(再認識)してもらい、コンシューマ版の販売拡大につなげる

③ゲームとして単純に面白いものを作って買ってもらう(例:スーパーマリオラン

 

『ポケットキャンプ』は明らかに②ですよね。また、シリーズ要素として家具を配置したり、服を着替えたりというものがある点では③も含まれています(無料で③が含まれているのですから、かなりサービス精神旺盛なゲームだと思います)。よって、ゲームキューブ版やDS版に比べてここが足りない、などと文句を言うのは間違っているどころか、むしろこのゲームに価値があると言っているようなものなのです。無料でコンシューマ版と同じことができたら、コンシューマ版が売れなくなりますよね。同じことができないことが正しいのです。

 

2.スマートフォンで手軽にやるために最適化されている

どうぶつの森』シリーズをやったことのある人なら、巨大な魚影に逃げられたり、貴重な虫を疑惑の判定で取り逃がしたりといった経験があると思います。スマートフォンどうぶつの森ができるとして、同じシステムを導入されたら壮絶なイライラゲームになります。指先でちょいちょいと押していって、近づきすぎて逃げられて……間違いなくクソゲーになります。そこで本作ではその部分を単純化し、苦労なく魚や虫を集められるようになりました。原作ではウキをそのまま魚にぶつけてしまうと逃げられたりするのですが、今作では適当に投げても向こうから寄ってきてくれます。虫の捕獲も距離感に悩むことがなくなり簡単です。しかし、そのシステムになってしまうと、珍しい魚や虫を捕まえた感動も薄れてしまうのでは……そこで、そもそも魚や虫の種類は大幅に少なくなり、売価も単純化され、それらは住民に渡して利益を得るためのアイテムとなったのです(一部高額な魚虫はいるが、ほとんどが売価10ベルで統一)。つまり「魚や虫を捕まえる」という要素はスマートフォンでできるけれど、それ以上の感動体験「貴重な魚虫を捕まえる」「コレクションする」「思わぬ売価の高さに喜ぶ」等はちゃんとコンシューマ版を買ってやってね、ということなのです。逆に、これらの要素はスマートフォンで手軽にやる場合、煩雑さを増してしまう部分もあるのです(巨大な魚の出る時間帯をメモしておくとか、アイテムが一杯になりそうでどれを捨てるか迷うとか、手軽さからは遠ざかってしまう)。

個人的には、単純な構成になっているからこそ、エリアはもう少し増やしてほしいと思っていますが(採取場が現在4つですが、6つくらいあってもいいのでは)、思考量を増やしてしまうことが逆にゲームへのストレスを高める可能性もあるため、難しいなと思います。

どうぶつに話しかけるのもタッチするだけだし、どうぶつの要望から直接クラフトできるし、アイテム一杯になったらそのまま売れるし、インターフェース周りは相当優秀な印象です。どうぶつとのやり取りには若干奇妙なものがあると思っていますが(感謝されすぎ、プレイヤーが簡単に儲かりすぎ)、どうぶつ達との(毒気もある)濃密なやり取りはコンシューマ版に譲ったということなのでしょう。

 

3.どうぶつの森の基本はしっかり抑えている

キャンプ場とキャンピングカーに自由に家具を設置していけます。キャンピングカーはお金を使って増築できます。これが無料でできるんです。理想のキャンピングカーにしたいですね。ちなみに「家具ごとの固有リアクションが豊富」「タンスにアイテムをしまえる」等の要素はコンシューマ版でお楽しみください。アプリがあるからゲーム版は要らない、などといったことにはならないようにできています。家でなくキャンプ、キャンピングカーなのもいいですね。キャンピングカーを運転するわけでもないのですが、劣化版という印象は薄まっています。

 

さて、ここまで「「どうぶつの森 ポケットキャンプ」は何故おもしろいのか」について語ってきましたが、このゲームにクソ要素があるのも事実です。

・釣った時とか、周りの住民が拍手してくれることも拍手してくれないこともある

あれ好きなので安定させてほしいです。

・バザーに服等を出せない、値段設定が味気ない

ここを自由にしたらコンシューマ版に影響するからということなのでしょうけれど、それでも少し不満です。

・「ホッホーッ ホッホー」がない

 これをもってコンシューマ版と分けている気もします。家具は配置できるし住民と会話もできるけれど「ホッホーッ ホッホー」は渡さないよ、「ホッホーッ ホッホー」が聞きたかったら製品版をやってね、という。そういうことなのかもしれません。

・あさみに話しかけられない

このゲームは良くできていると思いますが、この部分をもってクソゲーと言う人がいるなら私はそれを支持します。

 

どうぶつの森 ポケットキャンプ』は、やっぱりどうぶつの森はいいなあと思えるゲームでした。適当な作りではなく、しっかりスマートフォンに合わせていて好感が持てました。

「死にたい」にも色々ある

http://www.asahi.com/articles/DA3S13216473.html

私はTwitter上で頻繁に「死にたい」と言う人間なのですが、死ぬ気は全くないどころか、「死にたい」が「助けて」の裏返しと言うこともありません。

じゃあ「死にたい」が全くの虚言なのかというと、個人的にはそんなこともありません。死にたいと思った時に死にたいと書いています。

もちろん、中には深刻な虐待、暴力に遭っていたり、健康で文化的な最低限度の生活が送れずにもう嫌だ死にたいと言っている人もいるのだと思います。そういう人を救えるようになるのはいいと思います。しかし、そうではない死にたいもあると思います。

もし僕が「死にたい」と書いている時にいきなりNPOの職員に「どうしましたか?」と声かけられたら「うるせえ死にてえのかお前 殺してやるぞ」と返すと思います。

貧困や暴力と戦っている人達を否定するつもりは全くなくて、それはそれで素晴らしい取り組みだと思うのですが、誰が助けることもできない、完全に自分の責任でもって苦しんで「死にたい」と書いている人もいるし、それはボトルメッセージを流しているのではなく、ただ「死にたい」と書いているだけなんだということが言いたかったんです。

なんだか、今回の報道を見ていると、結局苦しんでいる人達が救われないだけではなく、逆に自殺防止NPOを装って殺害したり金銭を騙し取ったりする人が出そうですよね。自民党議員はアニメのせいにしたりネット監視だとか言ったりしていて、いや、そんなクズはさっさと落選させればいいのですが、マスコミは批判せずに垂れ流すし、有権者も大歓迎で連続当選させるし……。まあそれはまた別の話なんであれですけど。

身体や精神に不調をきたすと簡単に行き場生き場がなくなる社会環境とか、家庭に問題を抱えている人間を差別し排除しようとする社会的風潮とか、そういうものをなくしていくべきだと思います。ネットに溢れる「死にたい」は僕みたいな人間のやつだけで十分でしょう。「死にたい」と発せられること自体を止めるとか、自殺防止フェンスを設置するとかじゃなく、もう少し根本的なところの解決に向かっていってほしいです。