アニメ映画『詩季織々』感想(短評)

詩季織々』は、3つの短編アニメから構成される。それらは独立しているので、独立した評価をするのが望ましいだろう。

 

陽だまりの朝食 ★★★★

主人公が祖母を亡くす中で、自分の人生の所々に存在したビーフンとその時の風景を思い返していく映画。「汁ビーフン」なる本場のビーフンの存在を初めて知り、興味深く見ることができた。冒頭の派手なモノローグは村上春樹みたいで笑ってしまったが、その後は実に落ち着いた雰囲気で純文学的な良い作品だった。

 

小さなファッションショー ★★★★★

モデルの姉とそのマネージャー、姉と共に暮らす妹を描いた物語。リアリスティックながら現状追認ではない造り、力強いメッセージ、泣ける展開。こういう風に生きていきたいと改めて強く思った。私が映画館で今年見た中では最高の作品。『サクラクエスト』にも近い部分があり見返したくなった。

 

上海恋 ★☆

新海誠の気持ち悪さと質の悪い恋愛映画の気持ち悪さを半分ずつ取り入れたようなゴミみたいな作品。カセットテープというアイテム選択から最後のシャオユの顔を映さない演出に至るまで気持ち悪さが爆発している。吐き気を催しながら劇場を後にすることになった。

 

以下は感想の感想になりますので口調が荒くなります。注意して読んでください。

 

 

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TOKIO山口達也の性的暴行に関連した私の呟きをまとめておきます

 

 

 

 

 

 

 これ以上特に書くことはありません。100年後に少しでもよい社会になっていることを目標に、私はめげずに生きていこうと思っています。少しでもよい社会にするために一緒に頑張ってくれる方、もしいたら一緒に頑張りましょう。

映画『ラブレス』とアニメ『ゆるキャン△』から学ぶ正しいセルフィー(自画撮り)の在り方

映画『ラブレス』の詳細な感想については述べません(悪い映画ではないし、良い映画だと思います)。ここでは『ラブレス』と『ゆるキャン△』においてのセルフィー(自画撮り)の使い方を見ながら、正しいセルフィーについて学んでみようと思います。

『ラブレス』ではスマートフォンが重要なアイテムとして使われています。スマートフォンは空虚さの象徴であり、主役の女が暇つぶしとしてしょうもない写真ブログを漁っているシーンがあったり、「本当の愛を教えてくれる」はずの不倫相手といてもスマートフォンをいじっていたり、印象的に使われています。セルフィー、いわゆる自撮りについても、主役の女がレストランでやったり、レストランで女達が集まってセルフィーを撮っている醜いシーンがあったりします。

ゆるキャン△』にもセルフィーがありますが、『ラブレス』とは映像に出てくる部分にまず差があります。『ラブレス』のセルフィーでは、彼女らが自らを撮っている場面を描写されている一方で、『ゆるキャン△』ではその部分が描かれません。省かれています。実は作品の冒頭に一度だけ撮影シーンもあるのですが、そのシーンではカメラのフレームの中がそのまま画面に映っており、撮影している人物をその外からは描いていません。

では『ゆるキャン△』にあるいくつかのセルフィーは何を描いているのでしょうか。『ゆるキャン△』のセルフィーでは撮っている様子ではなく、撮られた写真が描かれるのです。自分と景色を入れて撮影した写真を友達にチャットで送信したり、自分と友達の二人が一緒に入った写真を眺めたり、撮ったセルフィーを印刷して部室に飾ったり……。撮った写真の見せ方も、一般的なセルフィー(不特定多数に閲覧させる)とは異なっています。

この二つの作品から学べることは、良い写真とは(特定の)誰かのための写真である、ということではないでしょうか。いやいや、『ラブレス』のセルフィーも自分のためだろと言われそうですが(笑)確かに自分の自尊心のためには使われていますが、そういうことを言っているのではありません。『ラブレス』のようなセルフィーは写真を届ける相手がぼやけているのです。ネットの誰かに認められたい、多くの人にキラキラしていると思われたい、などという浅い考えでは、撮られる写真も浅くなるのでしょう。『ゆるキャン△』のように、自分で見返すためだったり、仲間に送るためだったりする写真には、芯が生まれてくるのです。これが正しいセルフィーなのではないでしょうか。

私は物心ついた頃から人物写真が嫌いで、集合写真も嫌い、風景を撮る写真が好きだったのですが、『ゆるキャン△』を見て、自分が映っているスマートフォンで撮るような写真も悪くはないかなと思いました。セルフィーのあるべき形を教えてもらいました。

15%の日本国民が、軍部による日本支配を容認している

政治の話が続いてしまって申し訳ありません。

今日たまたま見つけた記事に、とんでもないデータが載っていました。

民主主義が今、世界でなぜ、揺らいでいるのか

どの政治体制が良いと思うか?の問いに、15%の日本国民が軍部による支配がいいと答えています。より正確に表現するなら、軍部による支配でもかまわないと答えています、と言うべきでしょうけれど。

この調査の元データはここにあります。http://www.pewglobal.org/2017/10/17/japanese-divided-on-democracys-success-at-home-but-value-voice-of-the-people/

この調査結果に限ったグラフの画像はここです。http://www.pewglobal.org/2017/10/17/japanese-divided-on-democracys-success-at-home-but-value-voice-of-the-people/pg_2017-10-17_japan_2-01/

現在の間接民主制をまあまあ良いとすら思わない人が23%いたり、強力な支配者一人による体制を望む人が31%いたりするのも興味深いですが、軍部による支配を15%の人が良いと捉えていることは、正しい意味で平和ボケの象徴であるデータと言えると思います。

私は前から様々な世論調査の結果を見てきて、現在の安倍政権のような姿勢を何が起きても絶対に支持して離れない人は国民の15%くらいいるという持論を立てていましたが、その持論が間接的に証明されたような結果になっていて、喜んではいけないのでしょうけれど少し嬉しくもあります。よく「自民党に投票する人は頭がおかしい」「選挙に行かない人は頭がおかしい」と言って暴れまわる人がいて、僕は本当にそういうのはよくないと思っているのですが、色々な理由があって総合的に考え自民党政権を支持している人を、僕はおかしくないと言い続けたいです(さすがに、さすがに今回の公文書改竄に対する安倍晋三麻生太郎の姿勢はおかしいと思ってほしいですが……それでも例えば安倍はさっさと辞めて石破か岸田が総理やってくれとか、そうやって自民党政権を支持している人は正常だと思います)。 本当におかしい人は、この15%だけなんです。残りの85%の国民は、対話のできる国民だと思っています。特定の政党が嫌いな方も、他の政党の支持者に接する時には、どうかそのことだけは理解していただけると幸いです。

映画『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』感想

原題:The Post

この映画を見た誰もが、ニューヨークタイムズ朝日新聞を、ワシントンポストに読売新聞を重ねるだろう。ニューヨークタイムズペンタゴンペーパーズを報道している裏でワシントンポストが大統領の娘の結婚式を載せてしまう様は、公文書改竄をスクープした朝日新聞と政権に歯向かう発言を行った前文科事務次官の下半身スキャンダル(っぽい印象操作)を報じてしまう読売新聞に重ねられる。

この映画から学べる主要な教訓は3つある。1つ目は「新聞はどうあるべきか」。ワシントンポスト社主のキャサリン・グラハムとベトナム戦争の中心におり文書作成に関わったマクナマラは親しく、マクナマラはこの文書は後世のための記録として作成したものだ、公開するなと迫る。グラハムは自分の親戚がベトナム戦争に送られ命の危険に晒されている一方、マクナマラとの関係や、新聞社に対する投資家からの圧力もあり、苦悩する。渡邊恒雄は安倍晋三と親しく、何度も会食を繰り返しており、グラハムに重なるところが多い。それでは、グラハムをペンタゴンペーパーズの報道に踏み切らせたものは何か。それは現場記者の熱意と、報道とは何であるかというところに立ち返った報道人としての姿勢である。読売新聞にブラッドリーやバグディキアンがいるかどうかなのだ。

2つ目には、公文書保存の重要性だ。本作では政権側は秘密裏に確かな文書を作成していたのだが、もしこのような機密文書すら偽物だったらどうなるだろう。嘘をもとに分析がなされ、後の世代に更なる国家的損失を招くことになる。この作品においてベトナム戦争継続の根拠が問題視されたのは文書の記録がきちんと残っていたからであり、文書改竄されればそれ未満の話になってしまう。誤った戦争が起きても、後世の人々が誤った戦争だと知ることすらできなくなる(まさに太平洋戦争で日本が起こしたことだ)。なぜ正確な文書が記録され保存されていかなければならないのか、よくわかるだろう。

3つ目には国家とは何か、である。裁判所が最終的に記事の差し止めを却下したのには、国家とは何かが大きく関わっている。国家とは国民なのだ。ホワイトハウスや日本政府、ニクソン安倍晋三が国家なのではない。国民の声があるから、新聞社は機密文書をスクープできるし、裁判所も国民のための情報公開を止めることができない。私達次第で良い報道機関、そして良い国を作れるということを、もう少し私達は自覚すべきではないだろうか。素晴らしい報道には支援の声を。政府による国民に対する背信には糾弾の声を。

映画としてはあまり派手なところがなく、抑制的な描かれ方がされている。それ故にスカッとするものではないが、バランスのとれた映画だと感じた。戦いは続いていく。普遍的な作品であると言えるだろう。

電通を撲滅せよ

高橋まつりさんが自殺して電通が問題になったとき、僕の反応はこうでした。

「若くて綺麗な女が死んだからニュースにしてもらってるんだろ」

僕のこの反応は間違っていました。反省します。自らの浅薄さを恥じています。申し訳ありませんでした。

 

「電通、意識改革は遠く難しい」 高橋まつりさん母手記:朝日新聞デジタル

 

「高橋まつりさん報道、事実と思わぬ」電通役員が発言か:朝日新聞デジタル

 

人が死んで、報道にちゃんと乗って、NHKニュースでしっかり取り上げられても、それらの報道が自然に縮小していき、人々の意識には残らず、パワーハラスメントについては無かったことにされ、働き方改革という適当な標語にすり替えられ、結果、何も変わっていません。電通は平気な顔をし続けているんです。

 

私達が次の世代に何かしてやれることはないのか、というのは常々思うのですが、政治的な物事についてだと、各々のイデオロギーが絡んでくるため、なかなか全員が同意できる目標というのがないと思います。

そこで、今日は提案です。電通を撲滅しましょう。次の世代が幸せに暮らせるように、僕らの世代で電通を潰しませんか。

 

 

もちろん、電通は超巨大企業ですし、人を殺しても殺してものらりくらりとかわし続け、社員を洗脳下に置き、上司から部下へ犯罪行為や差別的思想そのものを会社の常識として刷り込み、その巨大な資本とパイプにより支配的な地位を保っています。しかし、だからといって私達は諦めて、電通を放置していてよいのでしょうか。

当たり前ですが、いくらカネを持っていても、電通が悪徳企業だと日本国民の100%が知っている環境下では、電通は生存できません。それが90%、80%だとしても、電通は相当動きにくくなるはずです。なぜなら当然そこからは、電通の広告した商品を避ける消費者や、電通の手法に嫌悪感を示す取引先の人間も相当数出てくることになるからです。それは確実に電通の支配力を弱めることにつながります。

 

 

僕らの世代で電通を撲滅しましょう。これからの日本が俗にいう中世を脱出し、現代的国家になるためには、その最大の敵である電通の撲滅が必要不可欠です。共に協力して電通を撲滅しましょう。