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『GAMBA ガンバと仲間たち』感想1 小説と映画

映画

このブログタイトルに表れているように、僕はoranqsを最後のネット言論にするつもりだった。少なくとも初めはそのつもりでいた。しかし、色々な理由があって、かなりふざけたアカウントになってしまった。この原因は偏に僕自身の態度にある。僕はもっと、誰に伝えるでもなく書くべきだった。それを忘れていたのだ。誰も読んでくれないことが当たり前なのも、インターネットには現実同様嫌な人ばかりいるのも、もっとずっと前からわかっていたことだ。よってこれからは、せめてブログだけでも、誰に伝えるでもなく、本当に自分が感じていることを書いていきたいと思う。そのきっかけとして『GAMBA ガンバと仲間たち』は十分なものだからだ。

これから書く一連の記事は、かなり映画の感想からは離れていくと思う。感想を書くのは映画ではなく人間なのだから、映画から離れるのは当然だ。しかし常識ではないので、ここで先に映画の簡単な感想を述べておく。映画『GAMBA ガンバと仲間たち』はアニメーションの出来もよく、駄作ではないが、原作ファンからすると展開が早い気もする。場面場面をきっちり描いてはいるが、間がなく、詰め込んでいるという印象だ。よって貶しもしないし、強く勧めもしない。僕は原作ファンなので見ていて何回も泣いたけれど、一般の観客がそうなるかどうかはわからない。
ちなみに、僕があわてて『ガンバと仲間たち』を見に行ったのは、ガンバが大コケという記事を見たからだ。このような映画はいつ公開停止するかわからないので、早く見に行くしかない。上述の通り、決して出来が悪いわけではない。(以下、映画だけでなく原作のネタバレも含みます)


原作『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』にはタイトル通り、ガンバ以外に15匹の仲間がいる。マンプク、ヨイショ、ガクシャ、イカサマ、イダテン、ボーボ、シジン、バレット、バス、テノール、アナホリ、カリック、ジャンプ、オイボレ、そして忠太。映画ではマンプク、ヨイショ、ガクシャ、イカサマ、ボーボ、忠太だけで、この時点で小説ファンとしては完全に満足できる映画化ではないことは明らかだ。確かにマンプクはガンバの前からの友人だし、ヨイショは船乗りネズミのリーダー、ガクシャは参謀、イカサマはサイコロを投げて占う上に戦闘能力も高く、ボーボは小説と同じように死ぬ重要キャラだ。忠太は島から助けを求めて来るので当然外せないとしても、他のネズミだって当然外せないのだ。カリックとアナホリは住処や食べ物を確保するし、バス、テノール、バレット、ジャンプはノロイの誘惑に抵抗する非常に心強い味方で、シジンは島に伝わる歌の重要性に気づくし、イダテンはガンバより足が速い。そして何と言ってもオイボレは、この作品で1番重要といってもいいシーンで死ぬネズミなのだ。彼らが外された理由は簡単で、それらを描いていると時間がかかりすぎる、労力もかかりすぎるというものだが、少なくとも小説『冒険者たち』には外せない。アニメ『ガンバの冒険』(私は未見)もやはり仲間が外されているようだが、この作品もそうであった。

もっとも、彼らが映画(あるいはアニメ)として外されなければならないのには、より正しい理由がある。小説では描かれないだけで済むシーンで、彼らは存在するだけ、ただついて来るだけ、そんな役割を背負わせれてしまうのだ。アニメや映画にしてしまうと、どうしても彼らの存在は主役を引き立てるための脇役、一芸に秀でる一方その他の場面では「その他ネズミ」扱いの脇役にしかなれない。小説の場合はそういった感覚をあまり感じることのないまま(少なくとも、喋らず突っ立っているアナホリやバレットといったものを視界に入れずに)読むことができる。これが小説と映画、小説と映像の壁であり、小説の完璧な映画化をする上で(これだけの人物を出す小説の完璧な映画化が)不可能であると言える部分だと思う。原作、映画の詳細な比較は次回以降に回すが、絶対的なメディアの違いというものは、絶対的な表現の違いを生んでおり、内容が変わってしまうことも仕方ないし、私が十指に入るほど好きな小説『冒険者たち』の、夢見が島へ向かった16匹は等しくヒーローであるということを強調しておきたい。