映画『リチャード・ジュエル』感想 「偏見」について考える

映画『リチャード・ジュエル』序盤は退屈な上に群像劇と見まがうほど視点が切り替わって疲れるのだがジュエルが犯人と疑われ出したところからはそれなりに面白い映画だった。以下は「偏見」について語りながらこの映画を振り返っていく(ネタバレあり)。

ジュエルのキャラは「下層白人」で、それが作中何度も言われることからジュエルのキャラに今で言うトランプ支持者を重ねていることは想像に難くない。彼は警備員として爆弾を早めに発見して報告し、被害をいくらか抑えることができた。一瞬、英雄として祭り上げられたものの……。
彼は頭が悪く太っていて、職務に対する熱心さはあるがそれは法執行官になるという憧れが肥大化した形でのものであって、それによる犯罪歴すらあり、税金を二年間滞納もしていて、明らかにダメ人間である。趣味は射撃で、家には銃やナイフを山ほど保管している。過去にパイプ爆弾を作ったことのある友人までいる。FBIはそれらジュエルの過去の履歴から「ジュエルが自分で爆弾を仕掛けたのではないか」という偏見による疑いを持ち、ジュエルに演技だと嘘をついて自白をさせ、逮捕しようと試みる。ジュエルは刑法の知識もあったからかサインはせず、かつて職場での理解者であった弁護士ワトソンに電話をかけるのであった。
ジュエルが犯人であるという証拠は何一つないし、犯行声明の電話をかける時刻までに電話ボックスに到着できないというアリバイまである。つまり、ジュエルは容疑者として扱われてはいけなかった。何が彼を容疑者にしたのか。偏見である。過去の犯罪者に似たようなパターンがあったから今回もそうだろうというだけで、そのためにFBIが捜査対象とし、マスコミにリークしてジュエル叩きが盛り上がる。家の周りをマスコミに囲まれ、FBIには証拠品として何もかも、母親のタッパーまで持っていかれてしまう。いかにも悪そうなやつ、過去に犯罪を犯していて、爆弾の知識もあるのだから、今回もジュエルの仕業じゃないだろうかという偏見によって、彼はひどい目に遭ってしまったのだ。

よく、偏見を持つのは悪いことだと言われる。しかし、実は我々は、誰もが「偏見」に頼って生活しているのではないか、と私は考えている。どういうことか。あなたは青信号の横断歩道を渡る時に、横にいる自動車が急発進して自分を轢き殺すことを想定しながら歩くだろうか?または自分の身体でもいい。あなたは平坦な道を歩く時に、自分の右脚が体重を支えられず、次の左脚に移り切る前に崩れてしまうことを考えながら歩くだろうか?恐らく答えはノーだろう。つまり我々は、たぶんこうだろうという「偏見」に支えられて、どうにかこの世の中を生きている。馴染みの駅構内で顔の浅黒い人に「すいません」と話しかけられたら「これは詐欺師だろう」という「偏見」をもって無視する。これもそうだ。「偏見」は自分が日々暮らしていくために必要なものなのだ。駅を通るたびに詐欺師に騙されて紙幣を抜かれていてはまともな生活はできない。
ただしこれは、ジュエルを追い込んだような偏見を許すために言っているわけではない。自分にとって有用かつ他人を傷つけない「偏見」ならば持っていてもいいが、そうではない、例えばジュエルをただ傷つけるばかりで肝心の爆弾の犯人を取り逃がしてしまうような「偏見」は偏見であり、否定しなければならないということだ。そして、その(持っていてもいい)「偏見」と(持っていてはいけない)偏見を分けるのは、実は、そこまで簡単ではない。
ジュエルは最後にFBI捜査官に対して、自分は貴方達を尊敬していた、でも今はそうできない、と発言し、(部屋に入る前にワトソンに教わったように)警官対警官の対等な立場として、自分を容疑者と言えるような証拠はないだろうということを突きつける。前の自宅でのシーンでは母親のタッパーまで持っていかれたり髪を抜かれたりしていても、それは警官のやることなんだから正しいだろうという「偏見」にまみれていた彼は、自分の「偏見」を偏見として認め、自分の足かせになっていたことを認めて、自分の(FBI捜査官は素晴らしい人だという)偏見を消し去ることにより、自身に対するFBIの偏見を打ち砕くのだ。

 

ただし、この映画は「下層白人」を下地にして偏見に抵抗することを描いた作品として良かったね、で終われるかと言うと全くそうではなく、この映画は明らかに働く女性に対する偏見を増幅させる描き方をしていて、問題がある。女性記者のキャシーは特ダネを書くためにFBI捜査官とセックスして情報を引き出す。これは典型的な(仕事の出来る)女性に対する偏見であって、その後そのシーンに意味があるようなフォローもない。自分でマッチポンプを仕掛けておいて弁護士の車に乗り込みまた逆の立場から特ダネを書こうと企んでいたり、本当にどうしようもないゴミクズとして描かれている(ジュエルの無罪証拠に気づくシーンはあるが、それは女性記者の愚かさを再確認する程度の意味でしかない)。この作品で出てくるもう一方の女性はジュエルの母親であり、それはジュエルの無実を信じて勇気ある行動を示し、息子を愛する良き母親であることを考えると、作品として女は家庭にこもっていろ、仕事に出てくるなという主張をして、偏見を増幅させていると見られても仕方ない。トランプ支持者に寄り添う映画を作ろうという考えはいいが、女性記者周りの描写は上述の作品テーマに逆行しているわけで、性差別というエサを用意してトランプ支持者のオカズになることを選んでいないか?と感じるし、残念であった。

グラン・トリノ (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video