「人の感想」を基準にするのいいかげんやめませんか

 

今日のワイドショーにて、コロナウイルス関連の話題でクルーズ船にいた人は大丈夫なのかという話を取り上げる時に、クルーズ船乗客の「不安です」みたいな感想をもとに話を展開していた(その先は見てない)。「不安です」みたいな感想それ自体は結構だが、もしクルーズ船の乗客が一人残らず不安に思うことなく下船したとしても、コロナウイルスの危険は変わらないはずだ。つまり、「不安です」みたいな感情はウイルスの根拠でもないし、14日ちゃんと隔離されていたかどうかや隔離されていた場所は安全なのか、あるいは更に感染を広げることにならないかという話とは全く関係がない。不安に思ってても大丈夫なこともあるし、不安に思ってなくても危険なことがある。この点をあらゆる人があらゆる分野で勘違いしていると思う。

例えば、ある絵を見て「うわあこの絵気持ち悪い こんなものを掲示するなよ」とある人が感想を書いたとする。これは何を意味するのだろうか?答えは簡単だ。この人がその絵を見て気持ち悪いと思ったこと、それを表明したことしか意味しないのである。この感想はただの感想であって、それ以上の意味は全くない。それなのにもかかわらず、一部の人にはこの感想が「表現の弾圧である」「表現の自由の侵害である」「表現規制を推進している」などと見えてしまうのだ。

人が不安に思ったり、不快に思ったりする感情はそれとして決して軽視や無視すべきものではなく、大事ではある(※人の不安や不快という感情それ自体が解決すべき問題であることももちろんある)。しかし上の2例、あるいはその他の話にもよくあるのだが、単なる個人の感想をあまりにも社会的・国民的に重大なもの(内閣総理大臣による答弁や談話のようなもの)と勘違いしていないだろうか?新聞記事にはよくこんな文句が出てくる。「不安の声が上がっている」「疑問の声が出ている」しかし問題は不安や疑問の声が出ているから問題なのではなく、その元の問題自体が問題であるはずであって、不安や疑問の声の有無なんかとは関係なくこれはおかしい、間違っている、そう書くべきなのではないだろうか。異常な長時間労働について労働者が「いや自分大丈夫ですよ」などと言っていても異常な長時間労働それ自体が問題だし、性差別について男性も女性もおかしいと思わなかったとしても性差別自体が問題なのだ。一個人の感想は一個人として尊重されるものであって、問題の判定基準にしてはいけない。

あまりにも当たり前の話なのだが、あらゆる場面でこの間違いが頻発しているので、改めてはっきりと書いておきました。

宜保愛子 愛と哀しみの霊たち

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