映画『ミセス・ノイズィ』のラストはこれでよかったのか?問題

ラスト、つまりネタバレの話しかしないので、映画を見ていない人は読まないでください。

 

 

 

簡易総評:「我々は”騒音おばさん騒動”から何を学ぶべきだったのか」映画としては完璧。ただラストが……。

騒音おばさん騒動に対する当時の私の認識:愚鈍な大衆の一員であるために、面白映像として受け止めていた。ただインターネットで行われたMAD動画のような種のイジリの存在は長いこと知らなかったし、そういった興味も持たなかった。おばさんの方が実は被害者であるという陰謀論(詳しくは述べないがネットの一部界隈では「真実」として支持されている)に対しては、その存在を知っている程度で興味もないし、あれは陰謀論だと認識している。

この作品は騒音おばさん騒動から着想を得たに過ぎず、騒音おばさん騒動の実写化、真相暴露等ではない。以下、ここで書かれる「騒音おばさん」とは実在の人物のことではなく作品中に出てくる人物のことであり、完全にフィクション作品と捉えてコメントする。


本作はメディアの有り様というものを描いた作品として非常に出来がいい。まずは片方の視点から騒音おばさんを描き、次に隣人の視点からネグレクトを行っている若い母親を描く。そして、それに対する大衆の消費とその消費がもたらした悲劇を通して、メディアというものがどうなっているのかを浮き彫りにしていく。本作はみんな問題を抱えているんですよね。おばさんにしろ若い母親やその夫にしろ編集者にしろ母親の親族にしろ(母親の親族はだいぶ悪い人として描かれてはいるけれど、それでもあの母親が売れるためにやっているということはある)、完全な善人もいないけれど完全な悪人もいない。それぞれの思い違いやストレス、やり過ぎによりおかしくなっていき、消費者は切り取ったその一部を見ているに過ぎない。主人公が原稿の掲載を願った末に描き出した『ミセス・ノイズィ』はYouTube動画層とマッチして売れるのだが、かつてファンだった水商売の女性には批判されるくだりも面白い。

そんな本作なのだが、ラスト5分程度の間に立て続けに3つの間違い(と私が認識しているもの)が起こる。3つのうち2つ目が個人的にもっとも指摘したいところなのだが、3つ立て続けに起こったことでまとめて本作への印象がだいぶ下がったので、これを続けて取り上げていこうと思う。

1つ目は、主人公の娘が騒音おばさんに「おじちゃんの見舞いに行く」ことを提案して、母親も了承するところ。これ自体はとてもいいのだが、見舞いのシーンが一瞬も入らない。なぜなのかはよくわからない、単に予算の問題かもしれないが、母娘が見舞いする後姿を5秒間だけでも入れてほしかった。これは3つのうちで一番些細なポイントで、残り2つがなかったらこれだけでは取り上げるつもりにならないほどではあるが一応書いた。

2つ目。主人公が自分の夫に、今まで自分のことしか見えてなかったと詫びる場面。坂上に立つ夫はそれを聞いて、理解したような素振りをしてそのままシーンは終わる。違うでしょ?主人公の夫はあそこで「俺も娘のことをお前(主人公)に任せ切りにしていた。自分のことしか見えていなかった」と詫びて、それで家族の絆が深まるお話でしょう? 別にこれは私が変な読み方をしているのではなく、明らかに主人公家族は序盤から夫が家事負担を妻に押し付けている「理解のない夫」として悪く描かれていて、自分の仕事の予定が急に入り、妻も仕事がしたいのに夫は「しょうがないじゃん」と予定外での子どもの面倒を見るよう押し付けるというのが物語の始まりに存在し、妻によるネグレクトもそれにより生じたという話の流れがある。 騒音おばさんに対する妻の対応を受けて夫は正論を吐くんだけれど、その正論は「正しいことは正しいけれど、妻の負担をあまりにも軽視しすぎじゃない?」というミックスフィーリングを観客に起こすような冷たい言い方になっている。 ずっとその調子で来ているから、あの坂のシーンでまるで妻だけが離縁を突き付けられるかのような怯えを生じていて、夫が平然としているというのは全く理解できない。それまで積み上げてきた描写があるのに、急にすっぽかされたような気分になって、エンドロールが流れる中でずっと考え込んでしまっていた。帰り道、もしかして製作者はあの夫の描写を「正しい人」として初めから描いていたのか?という不安まで抱くようになってしまった。これがこのエントリを書いている主要な動機である。同じように思った方、そこはこういう意味だよと他の受け取り方をした方、皆さんの考えを教えてほしい。 もちろん、それを「騒音おばさんと妻は分かり合えても、夫はやっぱりダメだ」というオチとして描いているのならまあそれはそれでアリではあるが、その可能性は次に挙げる3つ目のポイントで消え失せている。

3つ目は、改めて書き直した『ミセス・ノイズィ』単行本が店頭に平積みされるようになって良かったね、というハッピーエンド。もちろん、夫が自殺未遂にまで追い込まれた騒音おばさんがその書籍を受け取って笑って読んでいるということを示してはいるし、編集者からたびたび言われる「登場人物に深みがない」みたいな指摘に対し、主人公家族が絆を深めたことで主人公の描写能力が高まり、登場人物の深みが増して良い小説が書けたという話の流れはわかるのだが、それまでの割り切りのない真面目な描写群とは違い「なんとなくいい話」で終わるために無理し過ぎだろという印象は拭えない(こういう「なんとなくいい話」で終わりたがるの、社会に蔓延した本当に良くない癖だと思っている。せっかく単純な善悪対立にならないよう気を遣って描いてきたのに、観客に媚びてか知らないが、映画の質を落としている)。 また、騒音おばさん本人が許したという体を取っているとはいえ、それでも『ミセス・ノイジィ』を蒸し返していいのかという気分にもなる(小説に悪く書いたことを改めて作家として塗り替えているつもりなのかもしれないが、作品が実在の人物にもたらした実害についての謝罪は作品とは別にあるべきではないだろうか)。 この『ミセス・ノイジィ』が良い小説として認められるくだりは、この映画『ミセス・ノイジィ』自体が良い映画であると自己主張しているようにも受け取れるわけで、観客向けの「なんとなくいい話」としてだけではなく、製作者側の満足感も強いのではないだろうか。しかし、作品のオチとしては微妙に感じた。個人的には、ただあるがままにモヤモヤのまま終わっても良かったし、あるいは家族が再生への道を踏み出していく程度の、みんなハッピーラッキーみたいな終わりではなく湿った中に希望の見える終わり方の方が良かったと思う。

以上がラストの気になった点です。特に2番目は「予算不足のため」「観客を満足させるため」等の理由が存在しないので、自分の中でずっと腑に落ちないままなのです。一体どういうことなのでしょうかね。