映画『ノマドランド』感想:寒く厳しい『ゆるキャン△』。ファーンと志摩リンとの違い

映画『ノマドランド』を見てきた。鑑賞前に得た情報は日本語版Wikipediaによる「批評家から絶賛されている」「工場の閉鎖で住む家を手放さなければならなくなった人の話」だということ。しかし、この事前情報から想像される映画とはだいぶ異なる。

実際に映画冒頭から、主人公は住んでいた土地を離れ、車(キャンピングカーのように大きくはなく、普通の車を少し改造して1人寝られる部分を作ったような車)で生活することを余儀なくされる。そして映画全編がその車での生活にあてられている。描かれる期間は1年と少し。当然、映画上では例えば排泄物をバケツにするシーンとかタイヤがパンクしたとか、夜間車内で寝ているとここでの車中泊は禁止だと叩き起こされたりとか、そういうシーンは描かれている。しかし、それくらいなのだ。ノマドランドにおける主人公の高齢女性が苦労している場面はそれくらいなのだ。

この映画で描かれるメインの部分は、同じように家を持たず車で生活している人達との交流にある。彼らはそれぞれがそれぞれの喪失を抱え、集まっては知恵を与え合ったり物々交換をしたりして、またそれぞれの車中生活に散っていくという生活をしている。その中の出会いと別れ、人の温かさのようなものが頻繁に描かれており、全編に暗い画面作り、悲しげな音楽がかかるもののその実は悠々自適なノマドライフを送っているのである。

主人公については特にそうで、身寄りがないかというとそんなことはなく、妹は裕福そうにしていて妹の家で暮らしたらという話もされているし、元は同じように車上生活を行っていながら息子のいる家に住むことを決めたオッサン(明らかなイケメン俳優を起用しており、主人公に恋をしている)にも一緒に住むように誘われる。それらを断ってノマド生活を送っているのである。

なぜ彼女はノマド生活が送れるのか。それはAmazonやウォール・ドラッグや国立公園の掃除や石屋の接客といった、様々な場所で働けるから。車の故障で何千ドルと必要になった時には妹にお金を借りているのだが、それ以外の日々の食事やガソリン代といった部分で彼女が苦労している描写は皆無であるし、仕事が見つからずに困窮したり仕事中に理不尽な目に遭ったり病気に苦しんだりといったシーンはない(75歳の女性が病気に苦しむシーンはある。この人が半生を語るシーン自体はまあいいとして、そのシーンで唐突にそれっぽいBGMがかかるのがあまりにもダサい編集で引いてしまった。これらの編集面については後述)。

もちろん、住んでいた町が企業倒産で丸ごと無くなってしまい、彼女がつらい目に遭っていることは間違いないのだが、映画上つらい生活を余儀なくされているといった印象は全くない。むしろ選んでノマド生活を送っているし、そのための雇用(ノマドがふらっと来て働ける)を生み出しているAmazonらは素晴らしい企業にしか見えない。竹中平蔵が「貧乏になる自由もある。彼女のように生きなさい」と推薦しそうな映画だ。それなのにもかかわらず、全編暗い画面テイスト、部分部分でかかる悲しげなBGMにより、これは現代の貧困を描いた映画なんだという印象をもたらしているようで、実際Amazonはこの映画を買わないだろうとか、既存の社会保障制度からはじき出されてしまったベビーブーム世代の貧困を浮き彫りにしているといった評価がなされ、批評家からの絶賛も受けているのだろう。私には全くそのような映画には見えなかった。本当に弾かれているのなら弾かれている様子を(序盤の仕事がないと言われるシーン、Amazonの駐車場から追い出されるシーンだけではなく、もっと多く)描くべきではないだろうか?

本記事は当初、上記のような反論だけで済ませていたのだが、ヤマザキマリによる読解を読んで、なるほどこの観点からはよく出来た映画なのかもしれないと思わされることになった。特に主人公の心情を想像して文字化すると『孤独を自分のものにすることこそが、本来の生きるという意味なんだ』という感じではないかというのはまさにその通りで、本作が「貧困に苦しむノマド達」のような描かれ方を全くされていないのも、そういう話をしている作品ではないからなのだろう。

ファーン(フランシス・マクドーマンド)は志摩リンではない

本作が描いているノマド同士のつながりは、ボブが作中で明言するように「さよなら」のない関係となっている。これは『ゆるキャン△』における志摩リンと野クルの関係とは似て異なる。志摩リンと野クルが一緒にキャンプをしている間はノマドランドのキャンプ中の絵と似たような構造になっているのだが(そのために私は当初「ゆるキャン△みたいな作品なのに、なんでこんな暗い絵面なんだ?」と誤読した)、別れた後が違う。別れた後も志摩リンと野クルは(これからどこどこに行くよ、などと連絡を取り合うことはなくても)お互い頭の片隅で相手のことを頻繁に考えていて、それぞれが面白いと思ったものを写真に撮って送り合ったりしている。一方、この作品『ノマドランド』でボブのやっているキャンプから別れた後の、別れている状態での連絡が出てくるのはファーンに恋する男ノマドを辞めた男)からの動画1件であり、ファーンから他のノマドに、他のノマドからファーンにこのような連絡が来るシーンはない。そして、ファーンはこの男の家に行くものの、車の傍からタバコを吸いながら家を眺め、家の中に入り、食卓につき、何かを(私の居るべき場所はここじゃない、ことを)確かめた後に去っていく。

もし、『ノマドランド』がノマド同士のつながりを柔らかくも太いものとして描いているのであったなら、映画のトーンはこのように暗いものであるべきではなく、『ゆるキャン△』のような穏やかなトーンであるべきだろう。人と人とが焚火を囲んで寄り添う様、休みの日にはちょっと車を改造して住みやすくしたり、あの時のあの人に偶然会ったねとタバコではなくポッキーを分け合ったり、お互い茶化し合いながらのゆるいお仕事シーンがあったりで、それらを温かなBGMで包めば良いだろうし、私はそういう作品の方が好みである。

一方、そういう作品のテイストからスライドさせて、ファーン(フランシス・マクドーマンド)=志摩リンとはせず、より自由と孤独を強調した、ソロキャンではなくノマドという生き方を表したものにするならば、本作のように、岩が広がり波が押し寄せ乾いた大地が続く土地土地を描くことがファーンの心情を表すことにつながるのだ。私は保守主義者なのでしまりんに憧れることはあってもファーンの生き様には全く憧れないのだが(それが本作への受け止め方にそのままつながっている)リベラリストが感銘を受けるのはわかる気がした。もっとも、まさに本作がそうであるように、リベラリストの求める自由がネオリベラリズムAmazon等)による搾取の正当化に回収されないようにしなければならない、ということははっきりとさせておきたい。

本作の編集は自分が受け付けないものになっていて、所々でかかる悲しげなBGMもそうだし、やたらと主演女優の顔アップが多く、そのわりに余韻を残さずパッパッパッとカメラを切り替える現代的な編集もあったりして、見ていると精神が傷んでくる。ドキュメンタリー風にしたい面もあったのかもしれないが……。

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↑こういう映画だと思っていると肩透かしを食らう、という話でした。寒く厳しい『ゆるキャン△』と考えるならまあまあ良いと思います。

本記事は当初、作品に対して全面的に批判的な文章を書いていたのですが、作品への正確な批判にはなっておらず、あくまでも私の好みに合わないというだけの話であることが部分的にわかったため、部分的に記事を修正し、記事全体のタイトルも変更することになりました。このような編集をすることになった原因としては

  • 作品の事前情報から勝手に想像したような映画ではない、という期待外れの感情
  • 鑑賞後に検索して読んだ、私が事前情報から勝手に想像したような(貧困を描いた)映画である、という記事

があって、前者の思い込みを後者が強化したために、作品が描いていないものに対して「この作品は描けていない」などとする内容の批判文を投稿してしまいました。Wikipediaや予告編程度から作品内容を想像することはどうしてもある程度仕方ないとしても、それと他者によるレビューを合わせてしまい、描かれていない作品内容を批判対象にしてはなりません。本件については深く反省し、今後は作品内容をまず前提とした上で、肯定にしろ否定にしろ他者の作品評価記事の描く評価軸を鵜呑みにせず、作品の設定している軸をしっかりと見定めて感想記事を書くように気をつけたいと思います。本当に申し訳ありませんでした。