2015年発売のアニソンランキング 5位〜1位

2015年発売の中で好きなアニソンを取り上げます。




5位 Star!! アイドルマスターシンデレラガールズ1クールOP
素晴らしい王道JPOPだが、歌詞も王道のアイドルソングで僕が聴くにはキツいものがあった。




4位 Exterminate 戦姫絶唱シンフォギアGXOP

Exterminate

僕はこういう曲が好きなので、こういう曲や、こういう曲をよく歌っているミュージシャンを知ってたら教えてください。



3位 トゥッティ! 響け!ユーフォニアムED

トゥッティ!

舞い上がる 高揚感



2位 僕たちはひとつの光 劇場版ラブライブ挿入歌(ED)

劇場版『ラブライブ!The School Idol Movie』挿入歌 「僕たちはひとつの光/Future style」 (デジタルミュージックキャンペーン対象商品: 200円クーポン)

この曲のYouTubeリンクが見つからなかったために紹介の仕方を変えることになった。まあ歌詞がネタバレ的?で、1分30秒だけ聞かせられないので仕方ないか。極めてポジティブな楽曲で、転調があるだけで好きになりそうではあるが、楽曲全体としても好みである。



1位 Shine!! アイドルマスターシンデレラガールズ2クールOP

Shine!!

メッセージとしては、アニメとの相乗効果が大きい。多人数ボーカルは本来嫌いなのだが、JPOPとして音の置き方が完璧だったので仕方なかった。歌詞は一部かなり適当(歌としての通りの良さを優先しすぎている)ではあるが、メッセージの方向性は好みなので気にならなかった。2015年の1位として文句はない。

今年は全く音楽を漁ることができなかったが、それでもそれなりに良い曲に出会えた。やはりアニメタイアップソングは偉大だなと思う。

『GAMBA ガンバと仲間たち』感想4 2回目を見ての感想 ボーボと潮路

この映画を1回目に見た時には、どうしても原作小説との比較という形になってしまったが、2回目の今回は小説とは切り離して見ることができた。結果として、今回のほうが素直に良い映画だと思えた気がする。今回は3Dで見たのだが、3Dとしての感想はよくわからない。飛び出るシーンは飛び出ていたけれど、ニンテンドー3DSの3Dと同じように、個人的にあまり感動はなかった。ただ、グラフィックがとても丁寧に作られていることはよくわかった。

 
『ガンバと仲間たち』では、ひょっとすると原作小説以上に、ボーボがしっかりと描かれている。傷の手当を受けながら、ガクシャがワンテンポ遅れて大丈夫だと言うシーン(つまりボーボは助からないということ!)は1回目でも泣けたが、それだけではない。忠太の説明を聞きながら島ネズミの置かれている状況に恐怖し、共感し、寄り添っていたボーボ。今までぼんやりしていたけれど、みんなの役に立てて嬉しいと話すボーボ。イタチから忠太を守り、忠太を案じながら死ぬボーボ。この作品で最も命を輝かせたのはボーボであろう。まさにそれは、僕のあるべき姿でもあると思う。
 
潮路は強い。弱気になるガンバを励ましたり、希望のソテツで自らを奮い立たせガンバを救い出したりと活躍するが、自分の父親が目の前で死にながら「持ち場に戻るのよ」と振る舞うところに一番強さを感じた。強すぎると言ってもいい。父親である忠一の強さに呼応するように、忠一の死後、より彼女は強くあろうとしたのではないだろうか。原作ではもっとおしとやかで、こんなに強くはなかった気がするのだが、忠一の死があるぶん説得力のある変更点だと感じた。
 
前の感想で、この映画には間が無いと述べたが、それはあくまで原作小説目線での感想であって、映画を映画として見るとしっかりしていることが今回わかった。ガンバがマンプクと語り合うシーンもあるし、導入部分にも時間をかけている。マンプクはいちいち面白い顔をしているし、島ネズミは同じ顔ではなく子どもや老人が多いことがわかる。上映中も周りから感動して泣く声が聞こえてきた。
 
不満を書くとしたら、再びの言及になるが、やはり飢えを描いていないのが残念。ノロイたちが食べ物を用意して、そこに行きたがってしまう理由として飢えがあるのに、本作では踊りでの幻惑に一本化しているため、じゃああの食べ物の山は何なんだという気分になる。宴だと言って踊っているし矛盾はないのだが……。それから、野村萬斎のセリフで何を言っているのかよくわからない部分が1箇所ある。ノロイの怪しさ、狡猾さを出す演技としては全体的にさほど問題ないだけに、音響サイドがわかるように調節してほしかったところだ。
 
マンプクはかなりネタキャラ度が強くなっているが、それがガンバを信じて笑うシーンでの本気さにつながっていて意味がある。それよりもイカサマの描かれなさが寂しい。きっちりサイを振るシーンは2回?(両方とも1・1)で、少し斜に構えただけのボーボの脇役といった格好になってしまっている。まあこれは完全に個人的な愚痴であり、映画としては問題ない範囲であろう。
 
実は1回目の時点ではこの映画をあまり良いとは思っておらず、原作ファンとして"イカサマ"をし、原作を薦めるために映画を評価するフリをしていた面があった。しかし今回見て、絵が綺麗なだけじゃなく、お話としてもまともな良い映画だということがわかった。3回目を見る機会があるかどうかはわからないが、また見てもいいという気分にはなっている。エンディング曲の雰囲気や、東京の描写に無駄に力を入れているところからすると、白組が『ガンバとカワウソの冒険』を映画化したらかなりの名作になりそうな気はするのだが、そんな機会はなさそうだ。
 
潮路と忠太でおねショタ書きたいです。

『GAMBA ガンバと仲間たち』感想3 原作小説から削られた部分について

原作『冒険者たち』にあるシーンの中で、映画では完全に削られているものがいくつかある。最初の記事で述べた、映画にはいないネズミが頑張るシーン、特にノロイ戦でのバレットの踊り、バスとテノールの歌が無くなっているのは残念だ。それだけではない。オイボレはもともと島のネズミで、ひとり逃げ出したものの戻ってきたという設定なのだが、彼が死ぬシーンが変更され、島のネズミ(忠太、潮路の父親)が死ぬシーンになっている。これはオイボレを出さないという前提のもとでは良改変であるが、オイボレは一度島から逃げ出しながら若者たちのために(ノロイに釣られた若者たちの目を覚まさせるために)死ぬという極めて重い経歴を背負っていて、忠太と潮路の父親が身を呈するのとは意味が変わってくる(意味が削られてしまう)のではないだろうか。また、この死ぬシーンについても、原作小説と映画表現ではだいぶ違うものになっている。原作ではオイボレがイタチたちのもとに着くと、イタチの頬を一発叩き、それに対して周りのイタチが飛びかかり、周りのイタチによる輪が解かれるとオイボレは跡形もなく消されてしまう、というものなのだ。僕はこれを映像化するなら、骨だけになったオイボレの姿を見たいと思っていたのだが、全年齢向けの『GAMBA ガンバと仲間たち』ではそうはならない。忠太と潮路の父親(一郎?)はイタチに飛びかかるが、イタチに叩き飛ばされ、海に落ちる。死の表現としては温いと言わざるを得ない。児童文学で表せる死というものが、どれだけ自由なものであるのか、とてもよくわかった。

他にも、七郎と高倉ネズミのシーンが無くなっている。このシーンはガンバたちが絶対正義ではないという相対化をもたらすもので、イカサマの格好良さも相まってとても重要なのだが、映画では高倉ネズミたちはあくまで「島ネズミの一部反抗勢力」にさせられてしまっている。高倉のシーンや「お前らが来なければイタチにバレず平和に暮らせたのに」という話が無くなっているのだ。オイボレの代わりに一郎が死んだことで改心し協力的になるのだが、これも子供向け映画として尺を短くした結果だろう。改変自体はそれほど悪いものではないのだが、意味を失っている。山、高倉ネズミあたりのシーンはイタチがいつ来るかという緊迫感に包まれているもので、その緊迫感が無かったのも残念だ。
僕の一番好きなシーンである、イカサマが丁が出たと嘘をつき島ネズミたちの背中を押す場面も無くなっている。イカサマはボーボとの関係性については残されていて、ガクシャはヨイショとの友情がしっかり描かれており、それはそれで良いのだが、ガクシャとイカサマの対立、そこから憎めない間柄になるというのも『冒険者たち』の魅力であった。これが3時間アニメで、PG-12であったなら良かったのにと思うが……やはり尺の問題というのは大きい。
とにかく、イカサマがサイを振るシーンが少なすぎる。ことあるごとにサイを振るイカサマが魅力的なのに、ばっさりと削られているのだ。それだけではない。イタチがいつ来るのかという恐怖感、水や食糧の確保がままならない恐怖感、それが無くなっている。これらは当然描くのに時間がかかるのだが、『冒険者たち』において外せない要素であったし、見られないのは悲しい。

映画というメディアが大変魅力的なものであるのは確かだけれど、『ガンバと仲間たち』ではあるべき描写が削られていたように思う。それは間だ。映画版ではツブリたちのもとを去った後、山に行き、残されたソテツの花を見つけ、潮路を見つけるという流れなのだが、高倉の話がないばかりではなく、イタチが来るかもしれないという恐怖感や、食糧が確保できないことへの危機感といったものが全くなかったし、夢見が島の美しさや、ガンバが思いを吐き出したりする場面もなかった。必要な場面必要な場面をつなげる映画作りでは、間が無くなってしまう。『指輪物語』では序盤、裂け谷につくまでの間はフロドたちがナズグルに追いかけられるのだが、ここの頼れるものがいないという感覚は『ロード・オブ・ザ・リング』でもよく出ていた。例えば、表現しづらいが、ガンバのキャラクターは『冒険者たち』と『ガンバと仲間たち』では微妙に異なっていて、小説でははじめもっとだるそうなキャラクターで、それがマンプクに誘われて港に行って、忠太と出会って、助けないわけにいかない!と義憤にかられて……という流れになるのに、映画では初めから元気一杯で、なんかこれは違うと思うものになっている。このあたりも悲しい。時間の問題が大きいとは思うが、『ガンバと仲間たち』は『冒険者たち』の映画化としては、作品の方向性が変わってしまい残念なものになった。

それから、忠太の声が自分の感覚からはかなり離れていて驚いた。俺の中での忠太はもっとしっかりとした人物で、あんな萌えショタのような声は出さない。これはキャラ変更か私的な感覚の問題なのかはわからないが、どちらにしろ個人的には不満だった。マンプクについては、ウケ狙いに使われた部分があり(ガクシャが踏み台にするところとか)あれも少し不満ではある。どちらにしろ、おそらく原作は少年のための冒険小説なのだから、映画を見た人には原作を読んでもらいたい。小説のほうがいいぞ。

『GAMBA ガンバと仲間たち』感想2 映画版『冒険者たち』の良い点

予定を変更して第二回は映画版の良かったところについて書いていく。変更点に絡む場合は原作の内容についても言及する。

 
原作再現としては、「こっちも海だ!」のシーンをやってくれたこと。ガンバは海を夢見て住み慣れた我が家を後にしたのだから当然といえば当然だが、冒険を感じさせる名シーンだ。また、イタチの造形はとても良かった。とにかく怖い。ガンバ、ヨイショ、イカサマの3匹でイタチ1頭を倒すシーンはおそらく原作にはなかったものだが(原作において、イタチは見えている暴力性よりも未知の怖さが強調されている)、非常に良いアクションシーンであった。
 
映画オリジナルとしては、船でまずボーボが姿を見せるといった伏線を入れた上で、ボーボの死を忠太にも悲しませたのはよかった。原作の儚い死とは違うが、映像的に、これもまた良いなと思える方向の改変だ。また、原作ファンだからこそ驚くのだが、オオミズナギドリたちの攻撃でノロイが死なず、さらに巨大化して襲いかかってくる。これもまた良改変で、原作ファンだからこそビビる。ノロイの首筋に皆が噛みつき、ネズミたちの力でノロイを沈めるのだが、ノロイが沈んだ後、ガンバの姿が見えない。ガンバはノロイと共に沈んでいき、さらに、ノロイが最後に伸ばす手がガンバを掴もうとするその瞬間、潮路がガンバを救い出す。原作ファンにとってはここに来て未知の展開なので、ガンバが死んでしまうかもしれない、と、かなり緊張感をもって見ることになる。最終的には、ガンバも潮路も生き残るのだ。ボーボは死んでしまったけれど、原作よりも素直なハッピーエンドになっている。潮路に別れを告げ走り出す場面は、いかにも日本ドラマらしいが、ベタでありながら良い。話としては原作の悲劇性のほうが好きだが、潮路の父親が犠牲となって皆を守る(父親を止めようとする忠太を潮路が制止する)→潮路が危険を承知でツブリと共に海に飛び込みガンバを救い出す、というのは、きちんと命の物語として成立していて問題がない。もちろん、個人的には「ぼくは、ぼくは君を愛して……」のほうが好きだ。これはまあ、男の感覚というやつなのかもしれない。花言葉なんかベタベタで、忠太に明かされる前にわかってしまったのだが、ああいう恋愛表現もまた良いものだと思う。昔見た僕の好きなアニメにも似たようなものがあった(そちらでは、花言葉は秘密にされた)。
 
マンプクが女に惚れる→子どものあやし係になる→その子どもが女の子どもである(惚れた女が既婚者)というネタは、あってもなくても良かったと思う。こういう「惚れた女に子どもがいることで恋が破綻したことを示す」表現ってよくあるけれど何か元ネタがあるんですかね。
 
原作では、最初の倉庫でのガンバとヨイショの格闘シーンで、かなりガンバが善戦したと思う(今確認したが、引き分けであった)のだが、映画ではヨイショがガンバを圧倒する。そして、ガンバはなんとかヨイショの脚に組みつき、たまたまヨイショが足元に転がっていたピーナッツを踏んで転ぶことで、ヨイショを倒し、ガンバはヨイショに認められる。これは、その後すぐにヨイショがノロイから逃げ出したことを明かすことで、ガンバより圧倒的に強いヨイショ、ヨイショより圧倒的に強いノロイ、という形で絶望感を与えるためのものであり、子ども向けにわかりやすい流れとなっていた。
 
このように、原作小説から改変されたもの、付け加えられたものがあるのだが、原作をそのまま見たかったという我儘な感情を抜きにすると、これらの映像表現はほぼ成功している。この作品はとてもしっかりした映画であるので、ぜひ多くの人に見てもらいたいし、これを機に原作小説にも触れてほしい。
 

 

冒険者たち ガンバと15ひきの仲間 (岩波少年文庫044)

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『GAMBA ガンバと仲間たち』感想1 小説と映画

このブログタイトルに表れているように、僕はoranqsを最後のネット言論にするつもりだった。少なくとも初めはそのつもりでいた。しかし、色々な理由があって、かなりふざけたアカウントになってしまった。この原因は偏に僕自身の態度にある。僕はもっと、誰に伝えるでもなく書くべきだった。それを忘れていたのだ。誰も読んでくれないことが当たり前なのも、インターネットには現実同様嫌な人ばかりいるのも、もっとずっと前からわかっていたことだ。よってこれからは、せめてブログだけでも、誰に伝えるでもなく、本当に自分が感じていることを書いていきたいと思う。そのきっかけとして『GAMBA ガンバと仲間たち』は十分なものだからだ。

これから書く一連の記事は、かなり映画の感想からは離れていくと思う。感想を書くのは映画ではなく人間なのだから、映画から離れるのは当然だ。しかし常識ではないので、ここで先に映画の簡単な感想を述べておく。映画『GAMBA ガンバと仲間たち』はアニメーションの出来もよく、駄作ではないが、原作ファンからすると展開が早い気もする。場面場面をきっちり描いてはいるが、間がなく、詰め込んでいるという印象だ。よって貶しもしないし、強く勧めもしない。僕は原作ファンなので見ていて何回も泣いたけれど、一般の観客がそうなるかどうかはわからない。
ちなみに、僕があわてて『ガンバと仲間たち』を見に行ったのは、ガンバが大コケという記事を見たからだ。このような映画はいつ公開停止するかわからないので、早く見に行くしかない。上述の通り、決して出来が悪いわけではない。(以下、映画だけでなく原作のネタバレも含みます)


原作『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』にはタイトル通り、ガンバ以外に15匹の仲間がいる。マンプク、ヨイショ、ガクシャ、イカサマ、イダテン、ボーボ、シジン、バレット、バス、テノール、アナホリ、カリック、ジャンプ、オイボレ、そして忠太。映画ではマンプク、ヨイショ、ガクシャ、イカサマ、ボーボ、忠太だけで、この時点で小説ファンとしては完全に満足できる映画化ではないことは明らかだ。確かにマンプクはガンバの前からの友人だし、ヨイショは船乗りネズミのリーダー、ガクシャは参謀、イカサマはサイコロを投げて占う上に戦闘能力も高く、ボーボは小説と同じように死ぬ重要キャラだ。忠太は島から助けを求めて来るので当然外せないとしても、他のネズミだって当然外せないのだ。カリックとアナホリは住処や食べ物を確保するし、バス、テノール、バレット、ジャンプはノロイの誘惑に抵抗する非常に心強い味方で、シジンは島に伝わる歌の重要性に気づくし、イダテンはガンバより足が速い。そして何と言ってもオイボレは、この作品で1番重要といってもいいシーンで死ぬネズミなのだ。彼らが外された理由は簡単で、それらを描いていると時間がかかりすぎる、労力もかかりすぎるというものだが、少なくとも小説『冒険者たち』には外せない。アニメ『ガンバの冒険』(私は未見)もやはり仲間が外されているようだが、この作品もそうであった。

もっとも、彼らが映画(あるいはアニメ)として外されなければならないのには、より正しい理由がある。小説では描かれないだけで済むシーンで、彼らは存在するだけ、ただついて来るだけ、そんな役割を背負わせれてしまうのだ。アニメや映画にしてしまうと、どうしても彼らの存在は主役を引き立てるための脇役、一芸に秀でる一方その他の場面では「その他ネズミ」扱いの脇役にしかなれない。小説の場合はそういった感覚をあまり感じることのないまま(少なくとも、喋らず突っ立っているアナホリやバレットといったものを視界に入れずに)読むことができる。これが小説と映画、小説と映像の壁であり、小説の完璧な映画化をする上で(これだけの人物を出す小説の完璧な映画化が)不可能であると言える部分だと思う。原作、映画の詳細な比較は次回以降に回すが、絶対的なメディアの違いというものは、絶対的な表現の違いを生んでおり、内容が変わってしまうことも仕方ないし、私が十指に入るほど好きな小説『冒険者たち』の、夢見が島へ向かった16匹は等しくヒーローであるということを強調しておきたい。

『心が叫びたがってるんだ。』感想

中心となる登場人物は、声を出せなくなったヒロインの成瀬、心優しいイケメンの坂上、リーダーシップのある美女の仁藤、高身長野球部ヤンキーの田崎という4名です。
映画の中ではLINEのようなメッセージのやり取りと一般的なメールアプリの両方が出てくるのですが、LINEのメッセージについても「メール」と表現していたのでここではどちらもメールとして取り扱います。

成瀬が声を出せなくなった理由は「自分のおしゃべりが原因で(ラブホテルだとわからずに、ラブホテルから出てくる父親のことを母親に話してしまい)両親が離婚することになり、その時に父親にお前が悪いんだと言われ、ハンプティダンプティに口を閉じられた」からです。映画の開幕からいきなりラブホテルのシーン、離婚、ハンプティダンプティと一気にいくので、初めから少し現実から離れた映画だとわかるようになっています。これは観客の心にゆとりを持たせる方法だと思います。ハンプティダンプティはこの後もう一度、終盤に登場します。

言葉は人を傷つけるからと喋らなくなった成瀬ですが、メールはふつうにできます。それ言葉じゃないの???
成瀬は「地域ふれあい交流会」の委員に指名されると、嫌がって教室を飛び出しながら声を上げます。つまり、声を出せなくなったのではなく、出せるけれど普段声を出すことはない、というレベルのようですが、地域ふれあい交流会の委員に指名されるまでクラスメイトの前で声を出したことはありませんでした。高校2年生なのに。もちろん委員が嫌なのはわかりますが、授業中休み時間放課後と丸1年以上学校で声を出さなかった彼女が声を出すタイミングとして、委員への指名というのは変だと思います。丸1年以上おそらくそうしていたように、拒否の文面を書いて担任教師に見せればよいのではないでしょうか?
成瀬は坂上とやり取りをしますが、この時の成瀬の所作がキモオタ専用ディナーという感じで吐き気がします。この先何度も吐き気を催しながら見ることになりました。成瀬がそうして坂上に心を開き(ふつう、自分の両親が離婚した経緯について、今やり取りし始めたばかりの人に言わないでしょうから、心を開いたのでしょう)やり取りするようになった理由は、坂上が弾いたアコーディオンの音色に惹かれたからです。何の理由もなく音楽で人がわかりあえるというこの押し付けは、本作の結論につながってきます。
仁藤は中学時代に坂上と付き合っていました。この事実は、田崎が仁藤と付き合おうとし、仁藤が拒否する会話の中で出てきます。成瀬は(設定に無理がありすぎて)気持ち悪いし、とりあえず優等生の仁藤を中心に見ていくかというところでこの恋愛脳な展開が唐突に出てくるので、吐き気がします。
成瀬は普段声を出すとお腹が痛くなるのですが、ミュージカルのように声を出せば痛くならないと気づきます。しかし、この発見は全く活かされることなく、ふつうに声を発してお腹を痛めたり、ケータイを突き出して文字のやり取りで話します。これが完全に肩透かしで、もし音楽の素晴らしさを伝えたいのなら、ここから先、成瀬が全編ミュージカル調で話すようにすればよかったと思います。成瀬がミュージカルするのはこのあと一回、「地域ふれあい交流会」のミュージカル本番だけです。
成瀬がお腹を痛め病院に連れて行かれた後、成瀬の母親(成瀬が喋らなくなってしまい、近所から変な人扱いされるので、成瀬にも辛く当たっている)が成瀬を叱るのですが、それを坂上に見られ、指導されます。ここが明らかにおかしくて、本当の母親なら成瀬を自宅に連れ帰った後しばき倒します。病院の待合室で、坂上たちがいなくなったかどうか確認もせずに怒鳴り散らしたりしません。本当の母親なら他人に見られないタイミングで子どもを殴りつけるのです。これは当然母親に改心する機会を与えたい製作者側の都合なのでしょうが、今まで成瀬を腫れ物のように扱ってきた母親がこの程度で改心するというのもおかしくて、雑な脚本になっています。
最終的に、成瀬は坂上に惚れていたのに(それまでも、考えたミュージカルの内容から、成瀬が坂上に惚れているのは明らか)、坂上が成瀬のことを別に好きではないと知ったため成瀬は逃げ出し、ハンプティダンプティに出会い、例のラブホテル跡地に行きます。坂上はそれに気づきラブホテルに向かい、成瀬の言葉を引き出し、告白させ、断ります。成瀬が密かに坂上を想っているのは前からわかるので良いのですが、坂上が自分のことを好きではないと知って飛び出すあたり、成瀬も恋愛脳です。この一連のシーンでのメッセージとして、成瀬が喋れないのは殻に閉じこもっているだけであり、殻を割れば話せるようになるというのがこのアニメの結論です。これは話せない人にとって非常に暴力的なものであり、このアニメを真に受けた全国のキモオタが無口な女の子を惚れさせ殻を割ろうとするのではないかといった不安が、僕にこの感想文を書かせるきっかけとなりました。上述したようにこのヒロインはメールの文面ではふつうに話せたり、アコーディオンの音色が気に入ったくらいで自分が話せなくなった理由をそれまで話したことのない男に語ったりするような人間なので、喋れない部分について殻がどうこうというものではなく、吃音症やコミュニケーションの問題でもなく、あくまでキモオタにとって都合の良い2次元の女子高生であることを強調しておきます。
坂上が成瀬を連れ戻し、ミュージカルを成功させエンディングとなるのですが、最後は田崎が成瀬に好きだと告白し、成瀬が驚くところでエンディングです。最後まで恋愛脳でした。

評価としては、今まで見たアニメ映画では並ぶもののない最下位、すべての映画の中でも最低ランクのゴミクズ害悪映画です。ラブホテルやグロテスクなキスシーン(いちゃもんではなく、明らかにわざとグロテスクに描いているキスシーンです)を入れてハッタリをきかせ、中身はスカスカというだけで終わらず、間違った描写や間違ったメッセージを発しているところがさらにマイナスポイントです。
あえて良かったところを書くと、野球部絡みの部分はまあ見られるもので、坂上が田崎を挑発したら田崎の友人である野球部キャプテンの三嶋が掴みかかるところとか、田崎が後輩に陰口を叩かれて一度怒ったものの、まず自分の振る舞いを謝りにいくところとか、他の部分がドロドロで汚なかったぶん、わずかに青春を感じるものでした。藤原啓治役はポジション的に都合は良いのですが、あまり出過ぎなかったので良かったです。水瀬いのりの歌声は作中設定として綺麗でなければならないのですが、文句なしに綺麗でした。ただこれらの部分は本当に些末な枝葉なので、作品の評価を上げるものにはなっていません。「伝えたいことを言葉にして伝える」という芯があるはずなのに、それをぶち壊すいいかげんな設定、崩壊した脚本、物語的に感動させるクッションも何もなく、適当にスワッピングしてるだけ。『チンコが入れたがってるんだ。』『マンコが入れられたがってるんだ。』あたりに改題したほうがいいと思います。終わりです。

『艦隊これくしょん -艦これ-』は「メディアミックスにより稼ぐので、課金しなくても楽しめるゲームである」という大嘘について

艦これは課金を強要されるゲームです。

 

課金という言葉が「運営がユーザーに課金する」のであって、「我々が課金する」という言葉はおかしい、というのはもっともな指摘ですが、そもそも課金などという言葉をこの邪悪な意味以外で使わないので今回はその話ではありません。

 

記事タイトルにした嘘はかなり広まっていて、艦これの宣伝文句としてユーザーにひろく使われています。

実際、プレイ開始当初はそうだなと思います。体力回復のドックは初めから2つあり、課金して4つに増やすことができるのですが、最初に仲間になる駆逐艦という船種は体力回復にかかる時間が数分で、これを増設する必要はないと感じます。仲間の総数は最大100体なのですが、同じ船を2体育てる必要はない(1つのパーティに同じ船種を2体入れられないので。もちろん超貴重戦力であるなら別なのですが、ふつうの戦艦程度では2体育てることにはなりません)ので余裕があります。99のレベルキャップ開放には1体につき700円が必要なのですが、数百時間プレイしている私でも届く気がしないほど先の話でありこれは気になりません。

 

しかし、数百時間プレイしてわかったのですが、このゲームは課金が必要です。

 

100体というのは、ちょうどレア度の低い船が1通り揃うあたりの数であり、レア度の高い船を残そうとするとオーバーしてしまうのです。また、レア度の低い船でも「任務」というゲーム内のミッションで使うことになるため、気楽に抹消できません。

また、戦艦や空母といった種類は体力回復に10時間程度かかるようになり、軽巡洋艦重巡洋艦も1時間〜数時間ドックに入ることになるため、ドック2つでは足りません。ドック2つだと、1時間程度のドック入りですら、回復枠を埋めてしまい許容できなくなるのです。


よって、「艦隊これくしょん」は課金せずとも楽しめるゲームではありません。また、課金するかどうかにかかわらず、貴方から膨大な時間を奪うゲームです。他人とチームを組まされたり、ガチャさせられたりしないゲームだからといって、軽い気持ちで始めてはなりません。艦これは貴方の人生をめちゃめちゃにします。絶対にやってはいけません。かわいい2次元の女の子なんてそこらへんにいくらでもいます。アニメでも見ましょう。マンガでも読みましょう。とにかく艦これは止めましょう。以上です。