池江璃花子への批判はなぜ盛り上がったのか 五輪開催問題

五輪開催問題に絡み、池江璃花子に辞退するよう迫るなどした人達が話題になり、マスコミにも批判されました。この批判は当然だと思います。

一部では、池江が五輪開催の広告塔だから、電通と契約しているから、池江への批判は妥当だなどとする意見もありますが、そんなことはありません。池江はTwitterでの意見表明の中で、こう呟いています。

今このコロナ禍でオリンピックの中止を求める声が多いことは仕方なく、当然の事であり、オリンピック開催が中止されたとしてもないなら次に向けて、頑張るだけとまで書いているのです。これは、五輪を開催しろ、聖火リレーは自分が走るなどと言っている堂安律らの言葉(ただし堂安律の意見も、私は問題だとは思いませんが。劇団関係者が公演したいと言ったり映画関係者が上映したいなどと言うのと本質的には違いはないのですから)とは、はっきり異なります。池江は五輪開催の広告塔を降りているのです。それなのにもかかわらず、なぜか池江だけが殊更に批判されています。なぜなのでしょうか。

私はこの現象に対して、池江が女だから起きたんだろということを書きました。

また、池江に辞退要求するというのは典型的な運動の発想で、だから運動は嫌いなんだということも書きました(僕は運動の必要性を認めてはいますが、それでも前からずっと運動が嫌いです)。

しかし、これらの言及で見過ごしているポイントもあったのです。

それは、日本政府を批判してはいけないために、五輪開催問題への批判が池江に向かっているということ。

普通に考えた場合、五輪開催が不可能か可能かと問われれば、可能でしょう。選手を完全に隔離して受け入れ、検査を徹底し、競技の撮影・放送だけはマスコミを配置し、当然観客は入れない。五輪開催は可能です。まともな政府なら。

しかし現状、日本政府はまともではありません。PCR検査数は最大20万が可能と言っていますが、現状最大でも10万程度しか実施しておらず、五輪のために来る人全員にPCR検査を毎日実施する余力がもし仮にあるのなら、今PCR検査をひろく行えないことと整合性が取れません。人流を止めるなどと口先だけで言っている一方で未だ日本政府は無観客すら選択できず観客を入れる予定であり、更に地域と選手との交流なども未だにやるつもりなのが現状です。ワクチン接種は高齢者から行うのは当然ですが医療従事者にもまだ行き渡っておらず、そのためにワクチン接種していない医療従事者が高齢者へのワクチン接種を行うという本末転倒な事態が生じていて、更に予約は電話で先着順などという体制のせいで予約回線のパンクが頻繁に報道されています。更にこれら現状での国民への感染防止策の不備が散々明らかになっている中で、五輪開催を行っても国民の生命が最優先だなどという嘘を平気でつき続けており、昨年の国会審議拒否から一貫して日本政府には現状の緊急事態宣言・自粛要請以上の策を取るつもりがないことが明らかになっています。日本政府がまともではないから五輪は開催できないのです。

そんな日本政府に対し、我々は忖度して批判を控えています。なぜなら日本政府を批判すると異常者だと見られるから。テレビマスコミは政権批判ではなく政府の広報に終始しており、新聞ですら政権与党を批判する際は「野党が悪い」と必ず付け加える形をとる決まりがあるかのような状況です。このような状況で、五輪開催についての批判だけを政府に向けることは難しいのです。五輪開催批判をしたら、五輪というものが巨大な国家的イベントである関係上、明らかに日本政府を批判することになるのですから。

そこで目をつけられたのが池江璃花子です。池江はただの選手であり、池江を批判したり五輪辞退を迫ることは、日本政府批判にはなりません。だから易々と皆が池江叩きに参戦してしまったのです。本来、バッハや菅、あるいは女であっても橋本聖子丸川珠代を批判したらいいのに、それなのになぜかその人達は批判できない、それは政府権力側だから。政府権力には忖度しなければならないが、池江は一選手だから批判できる。これが池江批判が起きた理由です。五輪開催しようとしている日本政府やIOCへの批判になると、それは政府批判になり、やってはいけないことだ、しかし池江叩きなら気持ち良く思いっきりできる。そんな日本国民の歪んだ意識が現れた事件だったのだと思います。