映画『FLEE フリー』感想:「凄惨なゲイのアフガニスタン人の記録」ではなく「ある男の半生の記憶」として見るべき作品

映画『FLEE フリー』を見てきた。アニメーションの作りとしては、あくまで主人公がポツポツ思い出すという形式を取っているのとあとは予算的な理由なのか動画枚数が少なく、他方では白く線画を光らせて朧げな記憶を表現するといった手法により工夫されていた。以下は内容についての感想。

主人公はアフガニスタン戦争によりアフガニスタンからロシアに逃れ、そこから更に他国(北欧)に逃れようという様子が描かれている。ロシアの腐敗した警官に怯えながら、なんとか脱出し、しかしまたロシアに送還されるという過程は絶望的であり、(こういった過去を公には隠しながらではあるものの)今現在の彼は職やパートナーを得て生きることができているというのは本当に良かったと思う。この映画を素直に受け取るとそれで感想は終わりなのだが、私は他の点が気になった。

主人公の人生は確かに悲惨極まりないものではあるのだが、長兄がスウェーデンで清掃の仕事を得ていた関係で、アフガニスタンからロシアへの脱出が可能であったというのと、ロシアから密入国業者を利用し、難民認定を経てまともな国に脱出することができたというのがある。アフガニスタンで自身の父が連行されて結局会えなくなったように、アフガニスタンには他国に逃れる術のない市民が無数に存在し、それらは戦争に連れていかれるか、民主化したアフガン政権の圧政により苦しめられていることは間違いない。また、ロシアでも警察に怯え続け未来の閉ざされた人生に終わることはなく、密入国業者への金を払うことで主人公家族は脱出が可能であったのだが、このロシア警察に怯えながら逃れる術もなく衰弱していく市民も大勢いるということなのだ。これらは映画の中で語られることはなく、あくまで背景として存在するに過ぎないのだが、私はこの背景の「声を上げることもできない人達」に深い悲しみを抱いたのであった。

作中、家族以外の悲惨な目に遭った人の中で、取り上げられる市民が1人だけいる。ロシアのマクドナルドの横で警官に強姦される女だ。主人公は彼女に対し何もできなかったことを悔やんではいるが、最終的には自身の経済的成功とそれを支えてくれた家族への恩返しを果たすことを誓って話は終わっており、この1市民の存在は話の背景を過ぎ去っていったエピソードでしかない。ただ、それはこの話を語ってくれた彼に問題があるのではなく、偽りの身分を纏って生きている一人の男が抱えられる物事には限界があるということなのだろう。

彼は自身がゲイであることを家族に明かした後も、それを受け入れてもらえている。もともとアフガニスタンにはゲイなどというものが「存在しない」ほどのものなはずなのだが、その家族は早くからアフガニスタンの徴兵を逃れスウェーデンに移住していた人だから、ゲイを受け入れることもできたのだろう。一方、アフガニスタンの圧政下にいる他の多くのゲイはどうだろうか。

もちろん密入国の過程での狭い船内に押し込められる図、沈没しそうな船をなんとか水をかきだしながらノルウェー船籍に助けを求め、結果拒絶されるという絶望など、彼が悲惨な経験をしてきたことは間違いないのだが(あの赤い光るのを履いてる子どもがいたところはそれとは別に笑った)アニメという匿名形式を借りて語ることのできた彼の背景には、どのような形式でも語ることのできない大勢の市民がいることがはっきりしているわけで、彼の絶望よりはその無数の市民の絶望に打ちひしがれてしまう。この作品の伝えたかったこととは全く違うだろうが私はそういう感想を抱いた。

↑私の好きなロシア映画