映画『search/サーチ』感想 ふたつの疑問とテンプレート

(原題:Searching)

私のタイムライン上では絶賛されている映画『サーチ』を見てきた。私の感想としては、事件解決の部分の伏線はしっかりしているものの、それ以前のこの映画の基礎部分にある構造があまりにもテンプレートである上にそのテンプレが自分好みではないということ、パソコンディスプレイ上の描写には気を遣っているわりにおかしいところがあるという点で、まずまずの映画だという結論に至った。この感想では主に描写の疑問点を挙げ、最後にこの映画で利用されているテンプレートについて触れたいと思う。

以下の感想はネタバレを含みます。未見の方は読まないでください。

まず、主人公の家族に娘ができ成長していく過程で、パソコンやYoutubeのUIが一緒に変わっていくのは良かった。私より上の世代の人なら、余計にはっきりとYoutube登場の頃を覚えていると思うので(私も薄い記憶はあるが)楽しめるのではないだろうか。また、打ち込もうとしている文を消すという動作にも確かに感情の流れが現れていて、面白い表現だとは思った(その実、言いかけるとか目線とかの一般的ドラマ内動作に比べて、ディスプレイしか表示されないことも相まって、嘘くささも強いためにそこまで私が感心したわけではないのだが)。しかし、そうやって描写に感心していると明らかにおかしいところが現れる。
娘が行方不明になり、その情報を娘が忘れていたPCから得ようとする父親(主人公)。勝手に他人のパソコンを漁るというのは(親であっても)非常に問題のある行動だと思うのだが、まあ緊急事態ではあるし警察に電話した後だしそこは目を瞑っておこう。PC本体にはパスワードがかけられていない。娘の情報を知ろうとフェイスブックにアクセスすると、ログインされていないためパスワードを要求されて見られない。あるある。パスワードを忘れたとすると確認のためにGmailにメールが送られるがGmailもログアウトされていて見られない。Gmailのパスワードもわからないので忘れたことにすると、ヤフーのアドレスにメールが送られる。ここでいきなり主人公はヤフーのパスワードを打ち込み始め(娘本人の名前+誕生日?)ヤフーメールにログイン成功する。そこからGmailフェイスブックと新しいパスワードを設定してログインに成功する。ここで問題なのは、なんで父親は娘のヤフーのパスワードを知っていたのかということ。例えば昔自分が娘のアカウントを作ったとか、そういうことがあったのかもしれないが、手掛かりを探すとか思い出すとかいう素振りもなく入力し始めたので驚いてしまった。また、もし自分が昔パスワードを設定したことがあるのなら、フェイスブックGmailにもパスワードを試しに入力してみないのか?ということ。もちろん違うパスワードなのかもしれないが、それを一度も試さないまま、ヤフーメールにだけパスワードを打ち込み始めログイン成功しているのが、あまりにも実際に起こり得る描写からはかけ離れていると感じた。
更に、ここで「娘はパソコンを使っていない時にアカウントからログアウトし、パスワードもブラウザに保存しない設定にしている人」だと明らかになったのだが、それなのにもかかわらず後にTumblrやYou cast(生配信サイト)にアクセスした時にはログインしたままの状態になっている。これは変です。なんでこんな変なことになってしまったのかというと、つまり、「SNSのパスワードを忘れたことにして前のメールアドレス前のメールアドレスと探索していく」主人公による工夫を見せたかっただけで(実際検索すると、このシーンに感心している人が複数見受けられる)、実は作品としてリアリティを追及しているわけではないということなんですよね。でもそれは、わざわざ過去の場面でYoutubeのUIを昔のものに変えるような工夫がなされていることとは相反していて、要するに、この時点で私はこの作品にかなりがっかりしました。
もう一つの疑問はもう少し些細なことかもしれませんが、ラストシーンで生じます。ラストシーンは娘の視点に変わり、娘が音楽学校の合格発表をいわゆるF5連打をして待っているという状況で、父親との微笑ましいやり取りが流れながらエンドロールに向かうところなのですが、音楽学校の合格発表を更新しながら待っている状況で、父親との会話が終わり、更新してもまだ未確定という状況で、娘はなんとパソコンをシャットダウンするのです。これは理解不能ですよ。理解不能。だって合格発表を更新しながら待っているということは、そろそろ合否が出る時間ということでしょう。すぐに合否を知りたいという興味も持っている。それなのにもかかわらず、合否が出ないままPCをシャットダウンしますか?それまでの行動と完全に矛盾しているんですよ。これは映画のラストシーンであって、いい気分で終わるはずのところに冷や水をぶっかけているようなもので、完成前に誰か指摘する人はいなかったのかと思っています。このように、全体的に見せたいもの見せたいものがはっきりしている映画であって、そこの完成度は確かな一方、見せる気のない部分はかなりお粗末な出来なのではないかというのが私の出した結論です。

最後に、この映画のテンプレートについて述べます。この映画のテンプレートは「(母の死をきっかけに)いつの間にか娘との関わりが薄れていた父がそれに気づき、暖かい家庭を取り戻す」映画なのですが、子どもが学校で誰と友達とか、その友達の電話番号とか、そんなことを日々調べてストーカーするのが親のあるべき姿なのでしょうか?私にはそうは思えません。確かに、娘が隠れてマリファナを吸うほどに苦しんでいたのは確かでしょうけれど、親が子のプライベートを完全に把握してコントロールするのも間違っているでしょう。この映画製作者側の考えるあるべき家族の姿のほうが歪んでいるように私は思いました。
また、前科者が薬物に釣られて嘘の自白映像に協力させられるとか、黒人のクラスメイトが事件が大きくなってから「私は被害者の親友で~」と嘘泣きするなどといった、既存の偏見を利用したシーンも多く、それらを組み合わせて作られたこの映画は、果たして新しい映画なのかということに疑いを持たざるを得ません。先に述べたように、話の筋は古くさいテンプレートに沿ったものであり、トリック部分も(なるほどなとは思ったものの)すごく斬新というよりは我々からすると「あるある」といった程度のものでしかなく、GoogleFacetimeFacebookInstagramといったものを登場させて関心を引き、そのくせ細部の描写は徹底されていないというところを考えると、新しいフリをした古い映画なのではないかと私は感じました。