映画『グッバイ、ドン・グリーズ!』感想:描写不足なのではなく、元の設定がそもそも間違っている

結構色々な角度から批判します。以下ネタバレあり。

『グッバイ、ドン・グリーズ!』はまず開幕、「声優の名前 as キャラの名前」と主演3名のクレジットが流れるところから始まる。もしこの映画が普通の映画だったらこんなところに文句はつけないのだが、見終わった後に思うのは「この3人を使うことがまず初めにあって、作品内容は従属物だったのかな……」ということ。なぜなら3人の幼稚なはしゃぎっぷりがひどく、高校1年生という年齢設定に無理があるからだ。一体どういうことなのか詳細に解説する。

『グッバイ、ドン・グリーズ!』は『宇宙よりも遠い場所』のスタッフが製作しているということが強調されているため、あえてこの『よりもい』との比較でまず挙げられる問題点を指摘していく。『よりもい』では目的地が南極であり、そのために結構な無理を押し通していくという過程があるのだが、『グッバイ、ドン・グリーズ!』の主人公たちの目的は、これに比べると何重にも小さいものになっている。まずLINEでのマウント合戦などによりクラスメイトに妬み僻みを持っているという根本が、あれだけ悪意を持って描写されているクラスメイトと同様にダサいし、結果として生じた彼らの冒険の理由は「自分達のアホな行動により山に墜落した自分達のドローンを自分達が警察の追及から逃れるために取りに行く」という、ただただ3人がバカなだけの話になってしまっている。もちろん、もちろんこれはそんなことを描きたいのではなく、つまり旅の目的や結果が重要なのではなくその過程が重要だから、という言い分はわかるのだが、これは例えば『よりもい』が別に南極に行きたい人のための作品ではないけれど頑張る人を鼓舞する内容になっているのと比べると、あまりにも前提部分に乗れないでしょう。

この作品に限ったことではないけれど、少年の少年性を強調するために創作物中の少年というものはバカに描かれがちであって、実際にバカな高校1年生もそれは確かにいるんだろうけれど、本物のバカが主人公になっているのはキツいですよ。

3人の設定としてはローマが真ん中にいて脇を固めるのがトトとドロップという形式なんだけれど、まずトトを通じた勉強否定描写がものすごくダサい。ローマやドロップの一致した発想はただ世界を見下ろしたいという程度の低いものに過ぎず、親の敷いたレールだろうが英語の勉強をしているトトの方がまだマシな人物像でしょ。このありがちな「敷かれたレール否定論」はまた別にどこかで取り上げたいのだけれどまあ今回は置いておいて、ローマやドロップが(一般的にはバカげていても)何かを突き詰めて性根入れて取り組んでいるのならまだしもそうではないために、作品内ですら勉強否定描写が説得力を持てていない。

ドロップはローマとトトのそれまでのドングリーズに後から加わってブレイクスルーをもたらす存在として置かれているのだけれど、単純に北欧から来た子が正しく導いてくれるみたいな発想が舶来信仰みたいで気持ち悪い。実際に中身もないし、「どんぐりころころ」の話とかで実は外国人の方が日本文化にも詳しいんですよ、日本人から見えていないものが見えていますよなどと肉付けを図っているんだけれど見え透いていて気味が悪い。

そしてまあどうでもいい連中のどうでもいい旅が終わった後、ドロップが死んで、実はここからこの作品の最大の山場に入るのだけれど(この流れは全く予想していなかった)、相当突拍子もないことが起きていることは認めるものの、そういう作品だったのかなあ?という感想になった。仕掛け自体は面白いと思うし否定せず理解はできるのだけれど、作品の流れに合っている気はしなかったのですよね。つまり、赤い電話ボックスというのはあくまで夢への概念的なものであって、物理的な作用が生きているようには思わないと思うのですよ、少なくとも作品内にそんな想像をさせるフックは入れられていなかった。そのフックを入れなかったのは「終盤のこのシーンで観客を驚かせるためにわざとそうしている」というのが製作者側を信頼した時に出てくる見方だとして、そうなのだとしたら驚きはするけれど、別に感動はしないんじゃないかな、と私は思った。

それでまあ、出てくるチボリって女も男にやたらと好意的なのが残念過ぎるし(もし仮にこの女が一切画面に顔を見せずにローマのあこがれの人としてだけ出てくるのならそこをプラスポイントに挙げるつもりだったのだが、そうはならなかった。何も繋がりがない女がカメラだけであんな好意的なのおかしいでしょ。要するにイケメンが正義ってこと?氏ねよ、以外の感想をもたらさない)、全体的に最悪でしたね。評価点はないです。未見の人はこの映画見なくていいですよ。