映画『判決、ふたつの希望』から我々が学ぶべきこととは何か

判決、ふたつの希望』がどういう映画なのかを私の能力で説明するのは難しいので、公式サイトから引用します。

 

レバノンの首都ベイルート。その一角で住宅の補修作業を行っていたパレスチナ人の現場監督ヤーセルと、キリスト教徒のレバノン人男性トニーが、アパートのバルコニーからの水漏れをめぐって諍いを起こす。このときヤーセルがふと漏らした悪態はトニーの猛烈な怒りを買い、ヤーセルもまたトニーのタブーに触れる “ある一言”に尊厳を深く傷つけられ、ふたりの対立は法廷へ持ち込まれる。

トニーとヤーセルが主人公でこの二人が中心なのですが、それぞれの担当弁護士も癖のある人物で、トニーの妻も発言が多く印象深いです。まだ見てない人はぜひ見てください。

 

 

この映画から学ぶべきこととして、多くの人が「相手を理解することの大切さ」や「国籍で決めつけてはいけない」などという平凡なことを述べていて、本当に呆れてしまいました。このような感想は、邦題や物語の展開に引き摺られたものだと思うのですが、はっきり言ってそんなのは当たり前であり、我々が学ぶべきこととしてとうに過ぎているはずなのです。

 

私はこの物語の展開に違和感を覚えました。解決するはずのないことが、なぜかトントン拍子に解決したような終わり方を迎えているからです。そしてその疑問はパンフレットで氷解しました。

 

パンフレットで、聞き手の木村草太が「社会全体に希望が持てるということが描かれている」と投げかけたのに対し、監督はこう答えます。

 

レバノンに希望を見出せるのか、実はわかりません。現在の中東は、歴史上、一番の暗黒時代だと思います。そうしたなかで映像作家に何ができるのか。僕は、映画が解決策を提示できるとは思っていません。

 また、オフィシャルのインタビューの中でも「楽観的」というフレーズが繰り返されており、この映画は現実ではなく、あくまでも映画上のお話として解決させたんだということがわかります。

 

では、この映画から学ぶべきこととは何なのでしょうか。それは、「歴史と個人的経験は地続きにある」ということなんです。

 

 

作中、トニーとヤーセル二人の主人公は裁判ではないシーンで、なんで裁判になりこんな深刻な対立になってしまったんだと後悔する素振りを見せています(車を直すシーンもありましたね。あれはわざとらしすぎました)。いわゆる「いい人」であることを提示するシーンです。しかしそれは、二人が歴史的な対立を捨て去っている、割り切ってしまえている、無いものとして考えられているということではないのです。実際、二人の作中の和解の仕方は、歴史的事実を忘れるような形のものではありませんでした(ただヤーセルが機転を利かせたことによるハッピーエンドのような終わり方なので、例えばお互いに痛み分けすれば解決なんじゃないかとか、そういう誤解は招きかねない展開になってしまったと思っています)。

 

戦争や虐殺や、それによる差別、貧困が生じたという歴史的事実について、どうしても我々は「そういったことを気にせず仲良くできる」ことを正解だと捉えがちです。しかしそれは間違っているのです。嫌な目に遭った、つらい思いをしたという個人的経験と歴史とは密接に結びついているのであり、その感情を無にはできないのです。この映画を見た人なら、作中人物のだれもが複雑な感情を抱えており、こんな人物だと割り切ることができない、簡単ではないということが見えてくると思います。そこに乗せて、歴史的事実を無いものとして割り切る態度、切り離す態度が決して正しいものではない、ということについても思い至ってもらいたいです。