映画『モンタナの目撃者』感想 面白い作品のつくりかた

映画『モンタナの目撃者』は、『ウインド・リバー』の監督であるテイラー・シェリダンの新作です。そのため元から見に行くつもりだったのですが、『ウインド・リバー』のような社会的な映画ではないという情報を見て、一度は「まあいいか」という気分になっていました。しかしその後、面白いとか今年ベストだとかいう評判を更に耳にして、じゃあ行くかと思い、見に行くことにしました(こんなにフラフラしている理由は、世の中には見たい映画が多すぎて、欲望のままに見ていると際限がなくなってしまうからです)。

結論としては、『ウインド・リバー』のような社会的な映画ではないけれど、かなり面白い、そんな映画でした。そして思ったのですが、『モンタナの目撃者』も『ウインド・リバー』も、物語のつくりとして似ているところがあるので、今回はそこを取り上げます。以下ネタバレを含みます。

ウインド・リバー』を見た人ならわかると思うのですが、この映画はミステリーとしてある事件の捜査をずっと行っていくのですが、そのオチについてはかなり弱いというか、不思議でもなんでもないオチなんですよね。ただ、じゃあそれによって映画がつまらなくなっているかというと、別にそんなことはないのです。地域に暗く重く覆いかぶさる暴力、それが全く解決できず横たわっていることへの絶望が作品全体を通して染み渡ってくる映画で、中身がしっかりしているため、オチに意外性がなくても作品全体への評価にそこまで影響しないようになっているのです。

要するに、(私は細かい意味は知らないですが)マクガフィン(Wikipedia)のようなものが『ウインド・リバー』には使われていて、殺人事件の謎は物語の推進力として使われているということなのです。この点、今作『モンタナの目撃者』における子どもに託される機密情報は、『ウインド・リバー』以上にマクガフィンっぽさを明確にした存在であり、普通にこの物語を読むなら「この機密情報がマスコミに無事渡ることで大々的に発表され、悪党どもが大慌てになるか地団太を踏むかして、エンディングに向かう」というオチに至るはずなのに、そのオチを丸々カットしています。マスコミの車両がとりあえず来たところまで見せて終わり。えっ、機密情報って何だったの?変な組織はどういう悪さをしていたの?といったことは別に語られないで終わるんですね。

それでは『モンタナの目撃者』はオチなしクソ映画かというと、そんなことはないんです。必要ないんですから。この映画は以下の3点を見せたいがためだけに作られており、機密情報云々は所詮物語の推進力に過ぎず、別にどうでもいいんです。そして、以下の3点はとても魅力的に描かれていました。

1.おねショタ

『モンタナの目撃者』を一言で表すなら、最高のおねショタ映画です。(あの重苦しい『ウインド・リバー』からの落差よ。)
アンジェリーナ・ジョリーと子どもの二人が殺人犯から逃げ惑うのですが、アンジーは消防士として山火事の現場対応を指揮し、目の前で市民と同僚を失ったトラウマがあります。子どもは親父を目の前で殺されていて、もうこの世には頼れる人がいません。二人が出会い、お互いを信頼しキャンプファイアーを囲い、殺人犯と対峙しながら生還するまでの濃密なおねショタが最高で最高です。あくまで性的な意味はないように描かれていますが(小児性愛は重い犯罪なので当然)見る側が勝手に解釈するのは自由ですし、勝手な解釈をするための材料はわざとふんだんに与えられています。守られていた子どもが冒険を通して成長しアンジーを救うシーンが、正直言ってかなり危なく、殺されるんじゃないかとヒヤヒヤしましたが、これは少年が保護される存在ではなく「相棒」になったことを示すシーンなのですから、こうなるのです。最高ですね。

2.妊婦つえええええ

『モンタナの目撃者』をアクション面で支えるのが妊婦の女です。
自宅に殺人犯二人がやってくるシーンはもう殺されるのがわかり切っているという感じで、最悪の気分でしかなかったのですが、電話で夫に暗号を送り(その暗号にサッと気づく殺人犯もプロらしさが出ていて、とてもいい)、火炎放射器で逆襲して痛手を負わせた上に逃げ出します。更にはその後、とうとう二人の居場所がバレて後は殺されるしかないという瞬間に駆けつけ、猟銃で足止めして危機から救います。殺人犯の片割れとの撃ち合いも熱いですよね。強すぎる。カッコ良すぎる。夫を救えなかったのが悲しいですが……涙が美しい。カッコ良かった。

3.下請け労働者の悲哀

『モンタナの目撃者』に社会性があるとするならここでしょう。殺人犯もつらいよ。
普通このような作品では悪役の行動は省略されがちなのですが、今作は悪役も上記のおねショタや夫婦と同じように視点の存在するキャラとなっています。ものすごく重要な機密の処理をしなければならないのに、自分たち二人だけの1チームしか用意されず、結果として死体処理のための人員が足りずバレてしまったことを嘆くシーン。男は2チーム用意すべきだったと愚痴りますが、中間管理職?のような男に「文句言うな。お前はやるべき仕事をきっちりやれ」みたいなことを言われ一蹴されます。そして最終的には、片方が妊婦に殺され、片方は山火事で焼け死に、データはマスコミの手に渡って作戦は大失敗することになるのです。
悪党どもの本体が全く描かれないことにより、この二人の犬死のような虚しさが強調される描かれ方にもなっています。現場にカネをかけず、無理を押し付けられ、窮状を訴えても聞いてもらえず、失敗に至る。二人は結構有能なので(オープニングで華麗に一家を爆殺、狭い道で待ち構えて会計士を殺害、山火事を引き起こしたことで応援は来ずアンジーと子どもが逃げようとしていたルートは分断される、妊婦には苦戦するも通報を受けて駆け付けたオッサンは殺害し夫は抑え込む)、余計に悲哀が強調されるんですよね。

これらが魅力十分に描かれていれば、中身のある作品として面白くなるんですね。課題Aを提示する物語において、Aがどのように解決されるかをどれだけ豊かに描いたとしても、作品はAの範囲に留まってしまうわけです。その物語の中で引きつける要素を増やすことで、極端に言えばAの解決が「上手くいきました。終わり」みたいになっていても、途中の豊かな要素が作品の中身を担ってくれて、面白さとして現れてくる、そのようなつくりかたを『ウインド・リバー』『モンタナの目撃者』は教えてくれているのではないでしょうか。

↓これもおねショタ作品です