映画『あのこは貴族』感想:この映画にシスターフッドはある。しかし榛原華子にはない

絶賛されている『あのこは貴族』を見てきた。私はダメだった。以下感想。

話の流れに沿っての雑感

まず開幕早々、榛原華子の家族がどのように嫌な家族であるかを(食事の場を通じて)説明するシーンがあまりにも記号的で嘘くさくて、この時点でもう席を立ちたくなる。
その後、榛原華子のお見合い相手がとことんダメな奴ばかりという描写がされるのだが、パッパッとダメさを紹介していくために、これもかなり雑なキャラ付けがされた男がどんどん出てきて、まあこれは観客が「あるあるw」みたいな感じで声に出さず笑うところなんだろうけれど、個人的には不快だった。そして本命の彼が登場する。彼は家柄が非常に良くイケメンで、人当たりも良くて気に入るのだが、ケータイに見知らぬ女の名前が表示される。第一部完。
それで次は時岡美紀が主人公の第二部が展開されるのだが、ここからもおかしなセリフ回しがある。「内部生」をあんな長々と説明するのおかしいよね?観客にわかってもらいたいのはそうなんだろうけれど、あまりにも説明的すぎるために、実際の大学新入生としてあり得ない会話が生じている。 そして第三部(だっけ?N部構成になっているんだけれど、突然個人の回想シーンに入って時間が遡ったりするんですよこの映画。だったらN部構成にしなきゃいいのにと思った)、二人がヴァイオリニスト相楽逸子によって引き合わされるシーンがあるのだが、ここで相楽逸子が物語の主張を全部喋ってしまう(ここだけじゃなくもう一箇所どこかあった気がするが、とにかくこの物語の主張はその二か所ですべてセリフによって説明される。『花束』かよ)。それから、ひな祭り展覧会?に誘われたときの時岡美紀の反応もおかしくて、不思議そうな顔をしながら榛原華子の話を聞いているだけで観客には「あっ、榛原華子とは違って時岡美紀のあの家庭だと、母親と美術館とか行かないんだろうな」とわかるはずなのに(そのために第N部と区切って両者の視点・人生をご丁寧に開陳しているのに!)それを全部口に出して説明してしまう。『花束みたいな恋をした』じゃないんだからそんなバカな説明はやめろって。まあしかし後半はそんな全部説明するわけじゃないシーンもあるから、あの映画とは違う。しかしまた別の問題が発生するのだが……。

とりあえず、時岡美紀とはセックスしてるっぽいけどこれから先も不倫関係を続けるわけではないみたいだし、榛原華子は納得する。イケメンは政治家の家柄で、何やら家柄が更に厳しくなることは明白なのだが、家柄の高さ故のふすまの開け方も学んだようで、無事にこなし結婚する。イケメンの祖父が亡くなった後、イケメンは立候補のために議員秘書を務めることになり、忙しくなってしまう。忙しくなった夫に「あの映画見た?」と、初デートの時に見返すと言っていた映画について尋ねると、やっぱり見ていなかったらしい。離婚。終わり。あらすじとしてはこんな感じなので先に書いてしまって、以下論点整理に入る。

離婚とシスターフッドについて

まず、離婚について。離婚の原因が話題に出た映画を見なかったことではないことはさすがに私でもわかる。それまでに離婚の原因があって、あの応答は離婚の確認をしたに過ぎないのだ。そんないちゃもんをつけるつもりはない。では彼女の離婚原因って何なんだろうか。結婚して、夫が忙しくなって、自分も働きたいけれど……。で?夫ははっきり言って(時岡美紀の件からして)女にだらしない奴だとは思うけれど、それを承知の上で結婚している。結婚生活上、少なくとも映画に映る上で二人の間に不和はない。映画上だと、イケメン夫がいい奴にしか見えないのだ、いや、実際いい奴として描いているに違いないと思う。例えば初デートの時に見た映画について語るシーン。この時夫は先に家に帰っていて、後から妻が帰ってくる。ソファで眠る夫にブランケットをかける妻。夫が起きる。そこで夫が妻に怒りもしなければ小言も何もない。妻の言葉にはしっかり答えるし、最後、窓際に映る夫の姿は妻に背を向ける、無視するといった類のものではなく、ソファからずり落ちて妻の目線に合わせて会話を続けている。これは明らかに夫婦の不和ではない。他のシーンでも不和は生じていないように見える。離婚をする意味がわからない。

この映画にもいいシーンはある。それは時岡美紀とその高校・大学の同級生によるシスターフッド(フレンドシップ)だ。私の左隣で見ていた女が二人が自転車に乗るシーンで泣いていたのだが、まあ美しく撮れていると思う。同窓会のシーンも、あとは脱毛の話をするシーンもいい。(あと榛原華子が道路を挟んでよくわからない女2人組と手を振り合うシーンも、その絵だけを取り出すなら良い。)これらがいい関係を見せているいいシーンであることには同意する。問題は榛原華子の方だ。彼女が離婚に至る要因は映画のテーマから読むならシスターフッド(フレンドシップ)によるものだろう。しかし彼女は結婚後も自宅に友人を招いてお茶会をしているし、時岡美紀を捕まえて話をした時にもそこで離婚を薦められるような話は出ていない。そして何よりも、離婚後の彼女はヴァイオリニスト相楽逸子のマネージャーをしているのだが、この仕事シーンがどうも必要な仕事には見えない、彼女が望んでいる仕事には見えない。例えば絵本作家をしたいけれど夫の世話があるからできない、だから離婚するしかなかったみたいな(今適当に作った話だが)何かしらの流れがあるならわかるのだが、このヴァイオリニスト相楽逸子はマネージャーを必要としている人には見えないし、相楽逸子と榛原華子の間で時岡美紀と平田里英が見せたようなシスターフッド(フレンドシップ)があるようには見えないのだ。

ラスト、榛原華子は自分が手配した(?)音楽会で相楽逸子が演奏している最中、上の階にいる(選挙区で行われた演奏会だから顔を出しているのだろう)イケメン元夫の姿をじっと見つめている。イケメンも榛原華子の方をじっと見ている。エンドロール。この終わり方なのだ。悪い意味で、『燃ゆる女の肖像』が見せたあの終わり方と(意味は違うが)対照的な終わり方であり、榛原華子がマネージメントという自身の仕事に全く集中も熱中もしていないことを示している終わり方でもあり、夫とは不和で別れたわけではないことを再度提示している終わり方でもあり、この作品の思想を決定づける終わり方である。

この流れを素直に読み解くならば、この作品のメッセージは「離婚はなんとなくしてもいいんだよ」ということかと思う。榛原華子にシスターフッドはなく、特に目的もなく人生の意味もよくわからないし、夫が嫌なわけでもないけれど、離婚したくなったから離婚する、それでいいんだよと。いや、そのメッセージに価値がないとか言うつもりはないのだが、そういう映画ということで合っているのだろうか?ちなみに離婚した後の榛原華子は冒頭のあの嫌な家族に相当詰められると思うのだがどう応対したのだろうか???

そういう映画ではないと言うつもりがあるのなら、離婚後の榛原華子が仕事をする場面はもっと尺を取って丁寧に描かなければダメだと思う。

榛原華子の困難について描くことは、実質的にまさに現実に存在する女を縛る不自由さを描くことになり、それを描写することで現実の観客である女に社会的圧力をかけることになるのだから描きたくない、のはわかるけれど、描かなかったことでこの話は全然まともに成り立たなくなってしまったと思うのですよ。観客は貴族ではないのだから、榛原華子の置かれている環境を自分達に引き戻して捉えるわけじゃないですか。冒頭の嫌な家族の描き方はまさにそれだ、記号的ではあるが同時に「あるある」でもある。でも最後に都合の悪いことを描かないのなら引き戻せないでしょう?そんな簡単に離婚できたら苦労しない、いや離婚自体は2人で同意ができても、その先に困難がある(まさに冒頭、結婚しない自身が嫌な家族にネチネチ言われるような困難がある)でしょう?それを描かずにいい話でしたねとはできないと思うのですよ。もし社会的圧力を考慮するのなら、苦しむ様子は描かなくていい、しかし榛原華子が自身の仕事に熱中して、(相楽逸子とのシスターフッドのもと)自分の人生を取り戻していく様子は最低でも描かないとダメでしょ。この映画は描くべきものが欠けていると言わざるを得ません。

シスター

シスター

  • 発売日: 2014/04/01
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